メモ

歯医者で手術を受けたら脳が記憶する能力を失ってしまった男性

By hsan Khakbaz H.

歯医者では歯の治療のために手術が必要なこともありますが、イギリスに住む男性「ウィリアム(仮称)」は、治療のために訪れた歯医者での処置がきっかけに、それ以降に起こった全ての出来事を記憶できないようになってしまったそうです。

BBC - Future - ‘My dentist saved my tooth, but wiped my memory’
http://www.bbc.com/future/story/20150630-my-dentist-saved-my-tooth-but-stole-my-memory

Profound anterograde amnesia following routine anesthetic and dental procedure: a new classification of amnesia characterized by intermediate-to-la... - PubMed - NCBI
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25978125

イギリス空軍の兵士だったウィリアムは、軍の任務でドイツに駐留していました。祖父の葬儀のために一時帰国していたウィリアムでしたが、葬儀の翌日の2005年3月14日、再びドイツへと戻ります。当日の午前中はジムを訪れてバレーボールで汗を流し、その後にオフィスに入ってメールのチェック。そしてその後に、歯医者を訪れて歯根管の手術を受けることになっていました。

歯医者を訪れたウィリアムは、予定の13時40分頃に手術用の椅子に座ります。手術を開始する前に歯科医はウィリアムに局部麻酔を施したのですが、この麻酔がその後のウィリアムに大きな影響を与えることになるのです。当日の出来事についてウィリアムは「手術用のイスに座り、医師が局部麻酔を施したところまでは覚えています」と語りますが、彼が持つ過去の記憶はこれが最後。それ以降はどんな出来事が起ころうとも彼の脳はそれらを記憶せず、全ての記憶が短期間のうちに次々に忘れ去られてしまう状態になってしまったのです。手術以降の記憶は全くの空白となり、その瞬間を境に彼の時間の流れは完全に止まってしまいました。

By Shannon O'Toole

手術の当日、処置を終えた歯科医は何が問題なのか全く理解できなかったとのこと。手術が終わり、保護用のメガネを外すように言われた時、ウィリアムの顔は真っ青で立つことすらままならない様子だったといいます。様子がおかしかったので、ウィリアムの妻・サマンサが病院に呼び出されました。

その様子について、妻サマンサは「ウィリアムは長イスに寝かされていました。彼は目を見開き、私を見て驚いた様子で、何が起こっているのか全く理解できていない様子でした」と振り返ります。その日の夕方、彼はすぐに病院へと連れて行かれ、その日から3日間を過ごすことになりました。その間、彼の曖昧とした意識の様子は改善された様子でしたが、わずか数分前の出来事を思い出せないという状態が残ることになりました。

By Charis Tsevis

手術以来、ウィリアムは全ての記憶を90分以上持ち続けることができなくなったとのこと。手術以前の記憶は正常のままであるため、過去に国防省で行われたブリーフィングでヨーク公に初めて会った時のことは覚えていますが、直近の記憶を持つことができなくなっています。自分が今、どこに住んでいるのかすら覚えることができなくなっており、毎朝目を覚ますたびに「自分はドイツに住んでいて、今日は歯医者の予約がある」と思う状態が続いているそうです。

By Strep72

次々と起こる身の回りの出来事に対する記憶を持てない彼にとって、過ぎゆく時間は全く意味がありません。記憶する能力を失って以来、ウィリアムが自分に何か問題があると認識できるのは、妻が彼に起こった出来事を詳細に記録した「First Thing - read this(まず最初に、これを読む)」と書かれたメモがあるからだといいます。

この一件以来、彼の記憶は消えゆくインクで書かれた書物のように、非常にはかないものになってしまいました。歯医者で行った局部麻酔が彼の記憶能力に重大な影響を及ぼしたこの一件からは、脳にはまだまだ知られていない深い部分が残されていることを知らしめてくれることになったのです。

◆記憶能力がなくなってしまったわけ
当初は、麻酔の悪影響による脳内出血が発生したものと疑われたとのことですが、けっきょくその痕跡は見つからないままだったとのこと。任務から外されることになったウィリアムはイギリスに戻り、レスター大学の臨床心理学者・ジェラルド・バージェス医師の診断を受けることになりました。

ウィリアムが示した症状は、ある時点から後の出来事を記憶できない前向性健忘の状態に陥っていると考えられました。これは、同じく記憶に障害を持ち、後に脳と記憶のメカニズムの解明に大きな功績を残した有名な人物ヘンリー・Mと同じものであると考えられたとのこと。

ヘンリー・Mは重度のてんかんの症状を持っており、これを改善する手術を受ける際に脳の「海馬」を除去されて以来、前向性健忘の症状を示すようになっています。この海馬は、いろいろな出来事を長期的保存するエピソード記憶に関する重要な役目を持っているといわれており、ヘンリー・Mは手術後に起こった出来事を全く覚えることができなくなってしまった人物でした。

By Alice Popkorn

しかし、ウィリアムの脳では海馬は損傷を受けておらず、彼が示した症状も前向性健忘とは一致しない点が多く確認されています。ヘンリーは直近の記憶が持てないかわりに、別の長期記憶の一種である手続き記憶の能力は残されており、記憶能力を失った後でも「体で覚える」タイプの記憶を持つことはできていました。

一方のウィリアムの場合、バージェス医師は彼に複雑な迷路を解かせても、3日後には完全に何も覚えていない状態になってしまいます。バージェス医師は「まるで、同じ間違い方をもう一度見せられる『デジャヴュ』のような状態です。彼は同じことをもう一度覚えるために同じだけの時間を費やす必要があります」と語っています。

考えられた理由の1つは、ウィリアムの健忘症状は「心因性のものである」ということでした。これは、過去につらい体験があった場合にトラウマがおこり、その記憶を思い出すことを拒否するメカニズムが働くことを指しているのですが、ウィリアムの妻・サマンサによるとウィリアムにはそのような状態になる出来事がなく、さらにバージェス医師の診察でも「ウィリアムは精神的に健康的な状態にあり、心理的に問題を抱えていると考える要因は存在していない」とのこと。

By Nicolas Raymond

バージェス医師はウィリアムの症状をもとに、その原因は脳の神経組織を形成するシナプスに隠されていると考えているそうです。新しい出来事はまず脳の海馬に入り、その後に複雑な構造を持つ脳の周辺組織に送られることで長期記憶として定着するものと考えられています。この定着のプロセスでは、新しい記憶を形成する際に新しいタンパク質が作られてシナプスが構成されるという仕組みになっているのですが、このタンパク質が存在しない状態だと記憶は非常に不安定なものになることが知られています。

タンパク質がない状態に記憶を保持できる期間はおよそ90分程度と考えられているのですが、この時間はウィリアムが記憶を保つことができる時間の長さとほぼ一致しています。このことから、ウィリアムの場合は、海馬を持たないヘンリーとは異なる仕組みで長期記憶のプロセスを失ったと考えられるのです。

By darkday

メカニズムがある程度解明されたわけですが、それでもなお謎のまま残っているのが「なぜ局部麻酔が記憶能力を奪い去ったのか」という点です。バージェス医師によると、ウィリアム同様に脳の損傷を伴わない記憶力喪失はこれまでに5例が報告されているとのことですが、いずれも歯医者での治療は全く関係のないものばかりとのこと。ウィリアムのケースについてバージェス医師は「症状を引き起こす何らかのきっかけを必要とする、遺伝的な傾向によるものでしょう」と原因について推測しています。

バージェス医師はニューロケース・ジャーナル誌に掲載される論文をきっかけに同様の症状が報告されることを期待していると語っており、実際にいくつかの情報が寄せられているとのこと。

今回のウィリアムの一件を見ると、科学はまだまだ脳についてほとんど何も理解できていないことを思い知らされます。脳の動きをカラー映像で見ることができる「カラーMRI」などにより、人間の脳は「記憶」や「恐怖」「セックス」などのように、その部位ごとに分かれたはたらきを持っていることがわかってきましたが、どうやらその考え方は単純化しすぎたもののように感じられるとのこと。完全な状態を保っている脳であっても、ウィリアムのように時間の流れを見失ってしまうという出来事は起こるものであることがわかり、脳の全てを理解するためにはさらに多くの研究が必要とされています。

By Allan Ajifo

また、ウィリアムの一件からは、人間に備わった感情の強さを知ることもできたといいます。症状が現れて10年がたちますが、その中でウィリアムは自身の父親の死を経験しました。ウィリアムは大きな悲しみに襲われることになったのですが、なぜか彼の脳に別の新たな記憶回路が形成されることとなったのか、父親の死は彼の記憶に刻まれることになったそうです。一方で、それ以外の出来事は完全に忘れてしまう状態が続いているとのことで、ここからもいかに脳の働きが複雑であるかが見えてくるようです。

ウィリアムには21歳と18歳になる娘と息子がいるのですが、彼はそのことを毎日のように「教えてもらう」必要があるとのこと。ウィリアムの記憶の中では2人はまだまだ小さな子どものままなのですが、ウィリアムは子どもたちの残りの人生が彼の中から消え去ってしまわないことを願っているとのこと。ウィリアムは「娘と一緒にバージンロードを歩き、そのことをずっと覚えていたい。子どもたちが親になり、僕には孫ができたこと、そして孫たちがいったい誰なのかを覚えていたい」と語ったそうです。

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in メモ,   サイエンス, Posted by darkhorse_log

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