取材

ユーゴスラビア崩壊による紛争の爪あとに「決して分かり合えないもの」を感じた


多文化共生の理想が崩壊したユーゴスラビア解体による一連の動乱。ボスニア紛争、コソボ紛争では多くの命が奪われました。紛争の爪あとは、今なお廃屋として残っています。日本でも移民受け入れが議論となりますが、共存共栄に失敗したユーゴスラビアの歴史を、私たちはどれだけ知っているのでしょうか。

こんにちは、自転車世界一周の周藤卓也@チャリダーマンです。2010年に旅したバルカン半島を、今年の初めに再び周りました。5年の歳月を経ても変わらない廃屋が残る町なみ。ユーゴスラビア崩壊の爪あとは、多民族国家の難しさを物語っていました。

◆旧ユーゴスラビア
七つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア)
六つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア)
五つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人)
四つの言語(スロベニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語)
三つの宗教(カトリック、セルビア正教、イスラム教)
二つの文字(ラテン文字、キリル文字)
一つの国家(ユーゴスラビア)

こういった言葉で表されるユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)は、多様性に富んだ国でした。国名通りの社会主義国家でしたが、政策の違いからソ連が主導する東側陣営とは対立し、冷戦下では中立的な立場を取ります。連邦維持のために、民族運動を徹底的に弾圧。このときに絶大な指導力を発揮したのが、第2代大統領を務めたチトーでした。ただ、その平穏も長くは続きません。チトーの死後、各共和国で民族主義が台頭。1990年代に入ると各共和国が次々と独立。一部では内戦状態となりました。

かつて首都だったベオグラード。


◆モスタルに残る廃屋
この独立で、最も深刻な状況に陥ったのがセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人(ムスリム)と3つの民族が暮らしていたボスニア・ヘルツェゴビナです。独立を求めるクロアチア人、ボシュニャク人に対し、セルビア人は反発し分離を要求。軍事衝突から紛争に突入するも、どの民族も多数派を占めないことから情勢は混乱。当初はセルビア人勢力が優勢でしたが、度重なるアメリカを中心としたNATOの軍事介入により弱体化。停戦の後に和平は結ばれたものの、1992年から3年半に及んだ、このボスニア紛争によって、20万人が命を落としています。

この紛争の激しさを今に伝えるのが、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部に位置するモスタルです。市内を分けるネレトヴァ川に架かる古橋「スタリ・モスト」を中心とした旧市街は世界遺産として登録され、観光地として賑わっています。

歴史情緒あふれる旧市街。


モスタルのシンボルともいわれるスタリ・モスト。


一方で街を歩けば、悲しい歴史から目を背けられません。ボスニア紛争時には、激しい戦闘が繰り広げられました。街には、紛争の傷跡ともいえる数々の廃屋が散らばっています。スタリ・モストも紛争時には破壊され、現在の橋は再建されたものです。

住宅ビルに残る銃弾の跡。


蜂の巣となったビル。


銃弾が残る壁に描かれたアート。


モスタルの街には、悲しくなるほどに廃屋が点在していました。


このような巨大な建物まで、解体されることなく放置されています。


真新しい建物に挟まれて廃屋が存在。


内戦終結から20年。誰も住むことがなかった廃屋を破壊していくように木々が育ちます。


廃屋の前を歩く地元民の日常。


巨大な絵が描かれていた廃屋。


一階部分は再建されたものの、上階はそのままとなっている建物。


瓦礫が残る廃屋の内部。


6階建てのビルは、骨組みだけの姿に。


左半分は形をとどめていますが、右半分は崩れ去っていた建物。


完成した当時は、さぞかし立派だったことがうかがえるコンクリート製のビル。


この公共施設のような建物も、時が止まったかのように、ひっそりと佇んでいました。


破壊された橋とともに、紛争を忘れるなというメッセージ。


モスタルは2010年にも自転車では訪問しています。観光地としての認識しかなかったのですが、おびただしい廃屋の数が、紛争の舞台を実感させてくれました。

観光地より記憶に残った紛争の爪あと。


一部の場所だけ、紛争から時間が止まっています。


◆独立を果たしたコソボでも
ボスニア紛争の終結で、一旦は落ち着いたかのように見えた旧ユーゴスラビア解体。しかし、すぐにセルビア共和国のアルバニア系住民が多数を占めるコソボ自治州が独立へ向けて動き出します。コソボ解放軍による蜂起を、ユーゴスラビア連邦軍が鎮圧するという武力衝突に発展。この時セルビア共和国とモンテネグロ共和国は、新たなユーゴスラビア連邦共和国(新ユーゴ)を結成していました。このコソボ紛争においても、NATOは軍事介入に踏み切ります。ユーゴスラビア連邦軍によってコソボのアルバニア系住民が、ジェノサイドの危機に瀕しているという理由からでした。このときもNATOに対抗することはできず、ユーゴスラビア連邦軍はコソボから撤退。コソボは、セルビア共和国の支配から抜け出します。

このコソボも2010年に自転車で走りました。モスタルと同様に、主がいなくなった建物が放置されています。

首都プリティシュナの教会。


走っていると崩れ落ちていく建物が道脇に点在。


住人はいなくなったのに、建物だけが存在しています。


こちらの教会は見るも無残な姿に。


春が訪れた緑の鮮やかさが、壊れていく物の悲しさを際立たせていました。


一連の紛争によって命を落としたアルバニア系住民の慰霊碑。


◆コソボで遭遇したデモ隊
セルビアの支配から離れ、コソボは独立を果たします。アメリカや日本を含む110ヶ国はコソボの独立を承認していますが、国内に民族問題を抱えるスペイン、ロシア、中国などは非承認。このコソボですが、多数を占めるアルバニア系住民とともに、約5%ほどのセルビア系住民も暮らしています。そうした国内事情からコソボの政権内には、セルビア系の閣僚も存在していました。

このセルビア系閣僚の辞任を求めるデモが今年の1月27日に発生しました。セルビア正教のクリスマスに、コソボ国内の修道院を訪問する予定だったセルビア人を、アルバニア系住民が妨害。このことに対しセルビア系の大臣が「野蛮人」と発言したのが、デモ発生の理由です。デモの一部は暴徒化し、多数の逮捕者を出しています。


運悪くデモが起きた日に、コソボの首都プリティシュナに滞在。宿泊先とデモ現場は目と鼻の先。朝は何もなかったのですが、出先で見たテレビのライブ映像には、人気のない大通りが映し出されます。そして耳に入るのはけたたましいサイレン音。何かが起きていたのは明白でした。どうなるのかと心配したものの、夕暮れ前には一段落ついた様子。ただ、朝とは変わり果ててしまった街なみ。普通のデモでなかったのは一目瞭然です。

盾を持った機動隊とざわつく群衆。


荒れ果てた路上。


どこから持ちだしたのか、おびただしい数のブロック片が落ちていました。


投げ棄てられたプラカード。


歩行者天国として賑わっていた大通りもこの有り様。


燃やされたゴミ箱からは、煙がくすぶっていました。


◆悪者となったセルビア
最後までセルビアと共に行動していたモンテネグロも2006年に独立。セルビアはボスニア紛争、コソボ紛争のいずれも当事者であり、非人道的な行いからNATOの軍事介入を受けました。その一方で、紛争の結果がセルビアに平等であったかは疑問に思います。アルバニア系住民が多数を占めるコソボはセルビアから独立したものの、セルビア系住民が多数を占めるスルプスカ共和国はボスニア・ヘルツェゴビナからの独立を果たしていません。国際社会の合意は、時に矛盾をはらみ、誰もが納得のいく結果となりません。クロアチアに住んでいたセルビア人も内戦によって難民化しています。

ボスニア紛争の和平としてデイトン合意が結ばれます。クロアチア人、ボシュニャク人によるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人によるスルプスカ共和国による連邦国家として、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成するという内容でした。そういうことから、2010年に自転車で旅した際には、1つの国の中にも関わらず「国境」を越えることに。走っていると、過去の悲劇に現在の悪意も重なり、気持ちがどうも沈みがちでした。

ボスニア・ヘルツェゴビナ内に掲げられたスルプスカ共和国の国旗。


道の途中で見かけた慰霊碑。


キリル文字で書かれた人名。紛争時の1992年、1993年にたくさんの人々が命を落としています。


スルプスカ共和国を否定する悪意。「BiH (Bosna i Hercegovina)」とはボスニア語、クロアチア語による略称。


キリル文字が塗りつぶされた標識。


新旧ユーゴスラビアの首都、そして現セルビアの首都も引き継いだベオグラードも、コソボ紛争時にNATOによる空爆の対象となりました。大きな被害を受けた国営放送局の建物は、今もなお当時の状態で放置されています。


セルビアに近いといわれるロシアは、ユーゴスラビア解体における西側諸国の対応を疑問視。このような不信は、昨年のウクライナのクリミア併合や、東部地域における動乱へと繋がっています。クリミア併合に関し、ロシアのプーチン大統領は演説でコソボを引き合いに出しました。

「私たちは分かり合える」と理想を掲げたユーゴスラビアは解体。そして今なお、憎悪の連鎖を断ち切れていません。私たちは悲しい歴史の流れを歩いています。

(文・写真:周藤卓也@チャリダーマン
自転車世界一周取材中 http://shuutak.com
Twitter @shuutak
)

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in 取材, Posted by logc_nt

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