医師としての道を歩んだナースは、一方で未来の世界や医療についての文章を書くことに大きな情熱を持っていました。メディカルスクール時代から書いたSF小説をアスタウンディングといった雑誌上で公開しており、医大卒業後の1957年に「Rocket to Limbo(辺獄へのロケット)」、1959年に「Scavengers in Space(宇宙の腐食動物)」を出版しました。1963年には作家業に集中するため医師の道を離れています。ただし、1965年には「Intern(インターン)」というヒーリングアートに関するノンフィクション作品を生み出していることから、医学への興味がなくなったというよりは、表現方法を変えたという言い方が正しそうです。SF作家の大御所であるロバート・シルヴァーバーグによると、ナースは非常にいい小説を書いていたものの、これらの作品が注目を集めることはなかったとのこと。
転機が訪れたのは1974年。ナースが得意とする「医療」「近未来」という2つの要素を統合した小説「The Bladerunner(ザ・ブレードランナー)」を出版した時でした。この「ザ・ブレードランナー」は優生学が信じられている近未来のアメリカが舞台。作中世界には国民皆保険が存在しているものの、「劣った」人間が医療を受けるためには子孫を増やさないために事前に断種手術を受ける必要がありました。結果として、医療関係のブラックマーケットが拡大し、闇で医療道具を販売する業者、違法の医療道具を用いて断種を望まない人を治療する医師、そして違法の医療道具を医師へと届ける「運び屋」が生まれます。この医療道具の中には外科用のメスなどが含まれていたため「Blade(刃物)」を持って「Runner(走る人)」という意味で運び屋は「ブレードランナー」と呼ばれていたわけです。

by T. MA
主人公の警官ビリー・ギンプもこのブレードランナーの1人で、医師の元へと医療道具を届けます。そして、伝染病が発生する中で、法律と戦いながらビリーと相棒が人々を救ったことを切っ掛けとして、優生学に基づいた国民皆保険が変わっていくというストーリーです。
「ザ・ブレードランナー」は元医師が書いただけあり医療に関する細かな描写もあって小説としては優れていましたが、その描写が解説的であることも影響して一般には受けず、「忘れ去られるのも時間の問題」というような作品でした。しかし、幸運なことに、作家のウィリアム・S・バロウズの目に留まることになりました。バロウズは、Wikipediaによると「ウィリアム・テルごっこをして誤って妻を射殺したり、同性愛の男性にふられて小指を詰めたりするなど、何かとエピソードに事欠くことがなかった」という人物ですが、この当時はヨーロッパからニューヨークに戻り、ちょうどヘロインとの関係を断ち切ったところで、作家としての再起をかける人生の転換点にありました。バロウズは1976年末に「ザ・ブレードランナー」第2版を入手、12月5日にアシスタントのジェームズ・グラウアーホルはエージェントに向けて、バロウズが「この本をとても気に入り、映画用に手を入れたがっている」ということを伝えました。バロウズにとって既存の小説を映画用に書き直す作業は新しい試みでしたが、約4カ月後の1977年3月、原題の「The BladeRunner」の単語の間にスペースをいれた「The Blade Runner」を書き上げます。

by Joe Flood
バロウズは「映画用に手を入れる」という話でしたが、できあがったものは映画の脚本というよりは中編小説のような体裁で、バロウズの他作品と同様、高度に不可解な文章で綴られていました。原作にマイルドさと荒っぽさが加わって、改変は「かろうじて原作との関係が見える」程度にまで及んでいて、作品の前半はどのようにして荒廃した世界が作られていったのかの説明に焦点があてられ、プロットが見えてくるのは中盤に差し掛かってから。また、主人公ビリーは原作と異なり「情熱的なクィア」で、初登場のシーンではパートナーの男性と性行為をしているところが描かれました。
この作品は数多くの点で映画に不向きだったのですが、とりわけ、エンディングが2つあった点が大きな壁となりました。バロウズは交互にエンディングを流すか、あるいは2つのエンディングを同時に流すことを意図していたようでした。
アシスタントのグラウアーホルも、上記のような点から作品が誰からも興味を示されなかったことを1977年7月に記しており、最終的にはナースが再び手を入れ、映画ではなく小説という形で出版されます。その際、映画化する予定は全くないにも関わらず、「ザ・ブレードランナー」と区別するために、「Blade Runner: A Movie(映画:ブレードランナー)」と名付けられました。。
その後「映画:ブレードランナー」は俳優であり脚本家のハンプトン・ファンチャーの本棚へと収納されます。そして1980年代初頭にリドリー・スコット監督、脚本家のマイケル・ディーリーとファンチャーの3人が「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の脚本について話している時に、「何か月も考えて答えが出ないんだけれど、デッカードは結局、何のプロフェッショナルなんだ?」「刑事は刑事でも、厳密に言えばどういう種類の刑事で、我々は彼を何と呼べばいいんだ?」という問題にぶちあたり、ファンチャーの本棚にあった「映画:ブレードランナー」から、その職業名が取られることになったとのこと。
バロウズは、スコット監督からの「小説のタイトルを借りたい」という申し出を了承。その結果、ナースの「ザ・ブレードランナー」とも、バロウズの「映画:ブレードランナー」とも関係のない映画に「ブレードランナー」という名前がつけられ、1982年6月25日に公開されることになりました。

映画の中でブレードランナーとは一体何なのかについての説明はなく、この点についてファンチャーは「映画の脚本において『説明』は悩みの種ですが、私は作中で『説明』をしないようにしているんです」と語っています。ナースは1992年、バロウズは1997年に亡くなり、2人の書いた「ブレードランナー」が多くの人の目に留まることはありませんでしたが、2人が書いた作品がなければ、名作映画「ブレードランナー」は別タイトルで公開され、今のようにヒットしなかった可能性もあります。