アウシュビッツ強制収容所に行って分かったこと、分からなかったこと

ナチス政権下のドイツで人類史上最大級のホロコーストが起きたポーランドのアウシュビッツ強制収容所。足を運んでみて分かったことがあり、分からないことがそれ以上にありました。
皆さん、こんにちは。世界新聞社の松崎敦史です。世界一周中のわたくし、現在ハンガリーの首都ブタペストにいます。
今回はポーランドで行ったアウシュビッツ強制収容所について。
アウシュビッツ強制収容所はこの辺り
より大きな地図で アウシュビッツ を表示
アウシュビッツ強制収容所とはポーランド南部オシフィエンチム市に作られた、第二次世界大戦中のドイツナチス政権が推進した人種差別的な抑圧政策により、史上最大級の犠牲者を生んだ強制収容所である。アウシュビッツとは第1~3まであった収容所の施設群の総称を指す。(一部wikipediaより引用)
時代背景として、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まった。アウシュビッツは最初はポーランド人政治犯を収容するため作られた。しかし、ナチス政権は時間が経つとともに占領したヨーロッパ各地からユダヤ人などをアウシュビッツに送り込み、少なくとも130万人が連行されたと言われている。
クラクフという街からアウシュビッツまでバスで約1時間半の道のり

バスから降りるときれいな並木道

アウシュビッツ(第一収容所)の入り口は博物館への入り口でもあります

中は人でいっぱい。年間約140万人が訪れ、訪問者は過去10年で3倍になったそうです。

アウシュビッツ第一収容所と第二収容所(ビルケナウ)

アウシュビッツ唯一の日本人ガイドだという中谷剛さんに案内してもらいます。※以下解説は中谷氏の解説、博物館案内書を元に作成しています。

収容所の正門

「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」の標語。実際には10人に1人も生還できなかったのだとか。

よく見るとBの文字が反転しています。これを作った被収容者のせめてもの抵抗の現れだと言われています

周囲には鉄線が巡らされており、約220ボルトの電流が流されていました。

中に入ると整然と被収容者棟が並んでいます。建物は再現されているものもありますが、当時もほぼこのような風景だったと言われています

一部の被収容者棟が展示スペースとして使われています

整備されていますが、当時は木の床でその上に藁が敷かれていたそうです。

少なくとも130万人がヨーロッパ中から連れて来られました

その内訳はユダヤ人110万人、ポーランド人14万~15万人、ROMA(通称ジプシーと呼ばれる人たち)2万3千人となっています。

ドイツ首相の言葉。当時のドイツは戦争に負けるなどして経済が困窮しており「かつての繁栄を取り戻すため」アウシュビッツを推し進めました。

人々を乗せた列車が第二収容所に到着する様子。写真右上と左上に見える煙突はガス室の焼却炉のもの。

貨車には窓もなく、降りた瞬間は眩しくて目を開けていられなかったといいます。

現在の第2収容所、アングルは違いますが方向は同じです。

子どもの姿があるのは、ドイツ政府は「ユダヤ人種」の撲滅を提唱していたから。

到着するとすぐ、ドイツ軍医が顔色を見て働けるかどうかを判定する「選別」が行われました。約75%が働けないと判断され、写真右上のほうに集められると、そのままガス室に送られました。その際「シャワーを浴びる」と伝えられたそうです。

この指が人々を振り分けました

ほぼ同じアングルです

人々から没収した荷物を仕分けしている様子。「安住の地を与える」と言われて連れて来られた人々は大抵、全財産を持ってやって来ていました。

現地での生活を信用させるためにドイツ政府が人々に買わせた切符。他にも存在しない商店や土地を買わせたりしました。

没収した眼鏡


没収した鞄

安心させるために「後でわかるように」と名前、住所などを書かせました

没収した靴


どのような生活が待っているのか気付いている人もいましたが「希望を捨てないために(元被収容者の証言)」持ってきたという食器

没収した義足。ドイツ政府は障害者も排除の対象としていました。

収容所がベルリンの本部に上げた報告書(国家政策なので収容所の出来事は逐一記録を残すことになっていた)。しかし、金などとしか記されていません。出所が伏せられた金はスイスの銀行にも流れたそうです。

写真撮影禁止のエリアには、被収容者から刈り取った髪の毛がうず高く積まれていました。髪の毛は布として加工、市場に出され、利益は国家資金となりました。一連の作業は被収容者の手で行われました。
ここからは収容所内の生活を見て行きます。
53万坪の土地に300棟以上の被収容者棟があった第二収容所。貨車が通る線路は……

収容所の中に続いています。この線路はヨーロッパ中から繋がっていました。

1944年、被収容者の点呼の数は約10万に達したそうです

現在でも残っている囚人棟は67棟

収容されるとまず、伝染病対策のため髪を切られました。髪を切るのは被収容者。

着せられた服

被収容者棟の中。この中に約400人が収容されていました。

ひとつのスペースに平均2人が寝ていました。冬はマイナス20℃になる時も。

一日約11時間働かされたといいます

被収容者棟を作る様子。こん棒を持ち管理しているのは被収容者。

このようなローラーに引かれて死者が出たのは、走って作業しなければならなかったから。

労働から帰ってくる様子。被収容者で構成された演奏隊の刻むリズム合わせて(早足で)歩かなければなりませんでした。担がれているのは労働中に命を落とした人。

朝食はコーヒーと呼ばれた液体、昼食は腐った野菜で作られたスープ。ただし被収容者間でも内容にかなり差をつけられていました。

一日の摂取カロリーは約1300~1700カロリーと定められていたが、実際はその半分も与えられないことが多く餓死する者も多かったといいます。

傾いて一見何を撮ったのかわからない写真。赤い枠の部分を拡大すると……

裸にされてガス室に送りこまれる女性の様子が映っています。被収容者が隠れて撮影したもの。

労働力とみなされない子どもは通常ガス室に送られるのですが、双子などは例外として収容され「優秀な民族を増やすため」という名目の医学実験の材料にされました。

「劣等性を調べる」という名目で医学実験の材料にされたジプシーの少女

「死の壁」と言われる一角。主に抵抗組織の人間などが銃殺されました。


ベルリン本部への報告用に撮られた被収容者が演奏している写真。模範的な光景を見せ、国際的な批判をかわす意味合いがありました。

廊下に並んだ被収容者の写真

被収容者は平均2~3ヵ月しか生きられませんでした。この方は僅か4日で亡くなっています。

このような環境においても脱走を図るものは少なく、また暴動も片手で数えるほどしかなかったとのことです。脱走を図れば連帯責任で仲間が殺されたし、被収容者が被収容者を管理するシステムは連帯感を抱きづらい状況を作っていたからです。
最後はガス室について。
ガス室を作った目的、それは時が経つにつれて収容者が増え、収容しきれなくなったから。それは管理するドイツ人が心を痛めないシステムでもありました。
見取り図。Cが脱衣場、Dがガス室。

第二収容所にあったガス棟の模型。一度に1500人を殺すことができました。

脱衣場

脱衣場の跡。奥に階段が見えます

ガス室

ガス室の跡

戦況が悪くなると、ドイツ政府は証拠隠滅のためガス棟を爆破しました。
第一収容所には第二のものより小さいですが、ガス室が残っています

内部

天井には穴が開いており、ガスの入った缶が投げ入れられると15分~20分で窒息死しました。カモフラージュのためのシャワーの蛇口まであったそうです。

使用されたチクロンBという名の毒薬。この一缶で150人を殺すことが出来ました。製造元のデゲッシュ社は現在も存在しています。

死体は被収容者が運び、被収容者によって隣の焼却炉(写真)で焼かれました。缶を投げ入れれば、ドイツ人は手を下す必要がない構造になっています。

「何故?」
事実を知って、考えて、考えて、想像を尽くしても分からないことがたくさんありました。
ガイドの方は「ここに来たからこそ分かることがあって、だから皆さんには一歩踏み込んで考えてほしい」と言いました。
それを少しでも感じてもらいたいと思い、この記事を作成しました。
(文・写真:世界新聞社/松崎敦史http://sekaishinbun.blog89.fc2.com/)
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in 取材, Posted by logc_nt
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