格闘技ブームの主役ミルコ・クロコップが引退、また一人ヒーローが消える
ミルコ・クロコップ選手(本名はミルコ・フィリポヴィッチ。以下、ミルコ)が、日本時間30日に行われた「UFC137」での試合に敗北。この一戦でUFCとの契約が満了することもあり、「UFCファンの皆さん、UFCの皆さん本当にありがとう。こんな結果ですみませんでした」と、事実上の引退表明を行いました。
「ミルコ」の名前は、格闘技ファンならずとも聞き覚えがある人が多いはず。ボブ・サップを初めて破り、ハイキックでKOの山を築いて、日本の格闘技ブームが最も盛り上がった時期を支えたスター選手の活躍を、改めて振り返ってみます。
スポーツナビ | 格闘技|ニュース|ミルコ、TKO負けで3連敗「これが最後」と引退表明=UFC
◆記憶に残る選手、ミルコ
ミルコの試合の中で、最も多くの人の記憶に残っているものと言えば、やはり2003年のボブ・サップ戦でしょう。サップは当時K-1最強と目されるアーネスト・ホーストを2度にわたって破っており、最も波に乗っていたタイミングでの試合でした。
下のムービーは、ミルコ対ボブ・サップ戦の映像。動画内の時間で2:48、ミルコの左ミドルから、痛烈な左ストレートのコンビネーションを受け、ボブ・サップは立ち上がることができずそのままKO負け。この試合はミルコの母国クロアチアでも生中継され、約50%の視聴率を記録したと言われています。
ミルコ対サップ - YouTube
また、総合格闘技イベント「PRIDE」に移籍してから、2003年に母国クロアチアで国会議員に当選。2007年まで国会議員として活動しながら、格闘技の舞台でも活躍を続けました。下のムービーは2004年初頭のVTR。ミルコの幼少期や国会議員になった経緯に触れています。
ミルコ・クロコップ vs ロン・ウォーターマン - YouTube
◆K-1時代
ミルコのK-1初登場は、1996年3月の「K-1 GRAND PRIX '96 開幕戦」。K-1初代王者であるブランコ・シカティックの一番弟子として参戦しました。この当時のリングネームは「ミルコ・タイガー」。1995年のグランプリ準優勝者ジェロム・レ・バンナからダウンを奪って勝利しますが、準々決勝でアーネスト・ホーストに完封され、3RTKO負けを喫しました。
Ernesto Hoost vs Mirko CroCop - K-1 GP '96 FINAL - YouTube
K-1時代のミルコの戦いは、ある意味でアーネスト・ホーストとの戦いでもありました。ミルコは、ピーター・アーツ、マーク・ハント、レミー・ボンヤスキーら、後のK-1世界王者となる選手たちに軒並み勝利していながら、ホーストとは3度戦って1度も勝てていません。ホーストによる4度のGP優勝の裏で、高い実力を持ちながらミルコは「K-1 World GP王者」という称号を得ることができませんでした。
◆総合格闘技への参戦
2001年8月19日の「K-1 ANDY MEMORIAL 2001」で、ミルコは初めて総合格闘技の試合を経験します。日本人でありながら世界の強豪に匹敵する実力の持ち主である藤田和之を、総合格闘技初試合で撃破。以後、総合格闘技イベント「PRIDE」に参戦。ここからしばらく、K-1での立ち技とPRIDEでの総合の両方をこなす時期が続きます。
ボブ・サップとの試合が行われたのもこの時期のこと。サップ戦以降、ミルコは主戦場をPRIDEに移し、総合格闘技に専念することとなります。
◆PRIDEでの活躍、日本の総合格闘技を牽引するスターに
PRIDE本格参戦後のミルコの活躍は目覚ましく、ヒース・ヒーリング、イゴール・ボブチャンチンなどの強豪を次々に撃破。この頃から、総合格闘技ではリスクが高いため滅多に見られないはずの「ハイキックでのKO」を量産し、ミルコの左ハイキックが特別視されるようになります。
この試合で、ミルコがドス・カラス・ジュニアに対して放ったハイキックは見事に頭部をかすめて当て、一瞬で意識を飛ばせています。その美しさは「ハイキック一閃」というスポーツ新聞の見出しが浮かぶほど。
2003.10.05 Mirko Filipovic CroCop vs Dos Caras Jr - YouTube
◆世界最強の男エメリヤー・エンコ・ヒョードルとの戦い
ミルコは格下と見られていたケビン・ランデルマンに油断し、失神KOを味わわされるなどの失態はあったものの、PRIDEでも着実に勝ち星を重ねていきます。2005年8月、ついに世界最強と目されるエメリヤー・エンコ・ヒョードルとのヘビー級タイトルマッチが実現。ミルコは世界一のタイトルに王手をかけます。
下のムービーは、ミルコ対ヒョードル戦のための煽りVTR。当時、あらゆる格闘技ファンが待ち望んだビッグマッチでした。
ミルコ・クロコップ vs エメリヤーエンコ・ヒョードル - YouTube
しかしヒョードルの壁はあまりにも高いものでした。ミルコは立ち技でも間合いを制され攻めきれず、結果は判定3-0でミルコの敗北。ミルコはまたも世界一の称号を逃すこととなります。
◆PRIDE消滅、UFCへの移籍
ヒョードル戦の後、ミルコは2006年「PRIDE 無差別級グランプリ」に参戦します。しかし、これと時を同じくしてPRIDEを運営するドリームステージエンターテインメントに「重大な契約違反」があったとして、フジテレビが突如PRIDEの地上波放送を打ち切り。これを機に、PRIDEは急速に求心力を失い、次々と選手が流出してゆく契機となりました。ミルコとヒョードルの再戦は実現しないまま、ミルコはその戦場をアメリカのUFCに移すこととなります。
◆UFC参戦から引退へ
PRIDE消滅以後、選手が大量に流出したこともあり、総合格闘技の本場は日本からアメリカに移ります。ミルコは2007年にUFC初参戦、白星でのスタートを切るも、次のガブリエル・ゴンザーガ戦でハイキックを受けまさかの敗北。次のシーク・コンゴ戦でも連敗を喫し、一時戦線を離脱します。
2009年にUFC再出場を果たし、初戦は勝利しますが、次戦、当時24歳の新星ジュニオール・ドス・サントスに完敗。多くのファンにとって、すでに35歳というミルコの年齢に限界を感じざるを得ない試合となりました。
それからミルコはUFCで2つの勝ち星を重ねますが、2010年9月、フランク・ミアに敗北。2011年3月にはブレンダン・ショーブに敗北。そして10月29日(日本時間30日)、ロイ・ネルソンに敗北。37歳で引退を表明することとなりました。
ミルコと激闘を演じ、世界最強と言われたエメリヤー・エンコ・ヒョードルもまた、2010年6月26日に総合格闘技ルールで初敗北を喫しました。ヒョードルを下したファブリシオ・ヴェウドゥムは、ミルコの柔術コーチを務めた人物でもあります。
その後ヒョードルは、アントニオ・シウバ戦、ダン・ヘンダーソン戦と連敗。アントニオ・シウバ戦の後は、ヒョードル自身が「応援ありがとう。きっと、離れる時がやってきたんだ。これが最後だ。素晴らしい時間を過ごせた」と発言。引退は撤回されましたが、ヒョードルも今年で35歳です。ヒョードルはこの後、11月末にジェフ・モンソンとの対戦を予定しています。
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