メモ

「生存バイアス」を有名にした統計学者のエイブラハム・ウォールドとは何者なのか?


生存バイアスとは、何かしらの選択を行った人や物事のみを基準に判断することで、その選択を行わなかった人の場合を考えないバイアスのことです。この生存バイアスを有名にしたエピソードの1つである「第2次世界大戦中の爆撃機の損傷」を検討した統計学者のエイブラハム・ウォールドについて、数学の歴史に関するエッセイサイト・Privatdozentが解説しています。

The Legend of Abraham Wald - by Jørgen Veisdal
https://www.privatdozent.co/p/the-legend-of-abraham-wald

ウォールドは、第二次世界大戦中、敵の射撃による爆撃機の損傷を最小限に抑える方法を検討していました。この時、海軍分析センターの研究者は「任務から戻った航空機で損傷が最も多かった場所の装甲を厚くするべきだ」と主張しました。

この時の損傷分布データとされるものが以下。赤い点が損傷のあった場所です。


しかし、ウォールドは「海軍分析センターによる研究は任務から生還した航空機しか考慮していない」と指摘しました。上記の損傷分布データでは爆撃機のコックピット周辺・エンジン部分・両翼中央部分・胴体後方部分はまったく損傷を受けていないように見えます。しかし、損傷分布データ自体は生還した航空機のみから得ていることから、「コックピット周辺・エンジン部分・両翼中央部分・胴体後方部分を損傷した戦闘機は生還できなかった」という可能性にも目を向ける必要があるというわけです。

このエピソードは「生存バイアス」の概念を大きく象徴するものとなり、ウォールドの名前もこの爆撃機の損傷分布データと共に語られることが多くあります。しかし、Privatdozentは「確かにこの生存バイアスのエピソードは賢明なものではありますが、ウォールドの科学に対する重要な貢献とはほど遠いものです」と述べています。


ウォールドは1902年10月31日に、オーストリア=ハンガリー帝国の東部(現代のルーマニア)で生まれました。ウォールドの父親はユダヤ人の実業家で、ユダヤ教の戒律によって土曜日の授業に出ることができなかったため、地元の学校に通うことができなかったそうです。しかし、家庭教師から授業を受けながら試験を受け、生地にあるバベシュ・ボヤイ大学数学部に進学。1927年にウォールドはウィーン大学の数学研究所に入学しました。

ウォールドはカール・メンガーの師事のもと、現代数学の父と呼ばれるダフィット・ヒルベルトが見直した幾何学公理を研究。ウォールドの研究結果は高く評価され、ヒルベルトの著書にもウォールドによる証明が引用されています。ウォールドは1931年に博士号を取得してウィーン大学の大学院を卒業した後も、幾何学の研究を続けました。


ウォールドは大学院生として非常に優秀な成績を収めましたが、当時のウィーンには公職の枠がほとんどなかったこと、そして当時のオーストリアでユダヤ人が差別されていたことから、ウォールドがウィーンで大学の職に就くことはできませんでした。ウォールドのハンガリーなまりと見た目は反ユダヤ主義が高まるウィーンでは明らかに差別の対象となり、ウォールドは日常生活すらもままならない状態だったとのこと。

そこで、ウォールドの師であるメンガーは、懇意にしていた経済学者のカール・シュレシンガーやオスカー・モルゲンシュテルンに高等数学を教える家庭教師の仕事をウォールドに紹介しました。このことが、ウォールドを経済学や統計学へ興味を持たせるきっかけとなりました。

その後、ウォールドはシュレシンガーと交友を築き、数理経済学の研究を始めました。1934年には「新しい生産関数の固有の非負の可解性について」「経済的価値理論の生産方程式について」という2つの論文を発表しています。この論文は発表当初注目されなかったものの、その後、モルゲンシュテルンによって経済学誌に発表され、さらにその後英訳されて世界各国にも知られることとなりました。数理経済学の研究がきっかけとなり、ウォールドはアメリカの経済学研究機関であるコウルズ財団から招へいを受けましたが、ウィーンを離れようとはしませんでした。

しかし、1938年3月にナチス・ドイツがオーストリア共和国の併合を強行したことで、ウィーンにおける反ユダヤの空気はますます強くなり、ウォールドにとってウィーンはさらに住みにくい街となったため、ウォールドはコウルズ財団からの招へいを受けて、1928年の秋にアメリカに移住。なお、ウィーンに残ったウォールドの兄弟や家族は第2次世界大戦中にアウシュヴィッツの強制収容所に送られて命を落としたそうです。

アメリカに移住した後、ウォールドは1941年に結婚。同年にコロンビア大学の助教授として採用され、1944年には数理統計学の教授となりました。上記の生存バイアスのエピソードは、コロンビア大学統計研究グループの一員として軍に協力した際のものです。


1950年、インド政府からの招待でウォールドは妻と共にインドへ旅立ちましたが、コルカタからベンガルールに向かう飛行機が墜落し、ウォールド夫婦を含めた乗客全員が命を落としました。モルゲンシュテルンは、「ウォールドは人生の絶頂期に科学界や多くの友人から引き離されました。彼はその分野で誰よりも多くのものを提供し、発展性のある新しいアイデアに満ちていました。ウォールドや彼のアイデアは私たちから失われましたが、彼が完成させた仕事は、次の世代を指導するために生きていくでしょう」という追悼のコメントを発表しています。

なお、ウォールドは生涯で100冊以上の本と論文を出版しており、メンガーとモルゲンシュテルンはウォールドの生涯と業績をまとめた本を発表しています。

この記事のタイトルとURLをコピーする

・関連記事
AIを使ったヘッジファンドで巨万の富を得た数学者ジェームズ・シモンズがこれまでの半生を語る - GIGAZINE

オカルトにはまり過ぎて歴史から抹消された「宇宙開発の真の父」の生涯とは? - GIGAZINE

人類史上でただ一人だけ月面に埋葬された人物とは? - GIGAZINE

「計算機科学のノーベル賞」ことチューリング賞がコンパイラの改良に貢献した2人の研究者に贈られる - GIGAZINE

in メモ,   サイエンス, Posted by log1i_yk

You can read the machine translated English article here.