サイエンス

脳は積極的に「記憶を失おうとしている」ことが判明

by ian dooley

「そういえば先週の休みは何したんだっけ」「おとといの夕ご飯は何を食べたんだっけ」と考えてみると、意外にもなかなか思い出せなくて驚くことがあります。「記憶がなくならずに、いつまでも残っていれば便利なのに」と思うこともありますが、近年の研究から「脳は積極的に記憶を忘れようとしている」という可能性が浮上しています。

To Remember, the Brain Must Actively Forget | Quanta Magazine
https://www.quantamagazine.org/to-remember-the-brain-must-actively-forget-20180724/

多くの研究者が「どのように記憶が保持されるのか」という研究を行っていますが、反対に「なぜ記憶が失われてしまうのか」という研究はあまり行われていません。ケンブリッジ大学の記憶研究者であるマイケル・アンダーソン教授は、「私が今考えていることや人生で経験してきたことの大部分は、私が80歳になった時には忘れてしまっているでしょう」と語り、忘却のシステムは記憶について研究する上で、非常に重要なものだと考えています。

マギル大学で記憶の忘却について研究しているオリバー・ハルト氏は、「忘れることができなければ、私たちは記憶を持つことができないでしょう」と述べました。ハルト氏によれば、もしも人間が全ての事柄を覚えていたら、記憶は膨大な情報量となってしまい、脳は非効率になってしまうとのこと。

私たちが1日の終わりに「その日あったとても平凡な出来事」を記憶しているのに、数日後や数週間後にはそれらの出来事を忘れてしまうのは、経験してすぐの状態では脳が「その記憶が重要か重要ではないか」の区別を付けられないからだとのこと。「忘れることは、重要なものかそうでないかを判断する、脳のフィルターとしての役割を果たします」と、ハルト氏は述べました。

by Neil Moralee

人間や哺乳類といった複雑な脳を持つ生物だけでなく、昆虫やウミウシといった単純な脳を持つ生物も記憶を持っています。記憶を保持する方法は動物によってさまざまであり、たとえば哺乳類では直近の短期記憶を海馬が保持し、長期的な記憶は脳のさまざまな皮質領域にまたがって保存されているそうです。よって、記憶を忘却するメカニズムにもさまざまなものがあると考えられます。

従来の研究では、「脳内で記憶を保持するニューロンが破壊されたり、記憶を保持している領域にアクセスできなくなったりすることで記憶は失われる」という、受動的な記憶忘却のシステムが強調されてきました。ところが、近年の研究では「脳が積極的に記憶を消去している」という、能動的な記憶忘却システムの存在が明らかになっているとのこと。

by Ivo Dimitrov

昆虫を含む節足動物の記憶中枢として働くのは、キノコ体と呼ばれる脳の一部です。フロリダのスクリプス研究所に勤める神経科学者のロナルド・デイヴィス氏はショウジョウバエを用いた実験で、ショウジョウバエに電気ショックを与えた時に特定の匂いを嗅がせ、ショウジョウバエがその匂いを避けるようになったことを確認しました。

続いて、デイヴィス氏らの研究チームはキノコ体に対するドーパミンの放出を阻害し、ショウジョウバエがどの程度匂いについての記憶を保持しているのかを確かめました。すると、ドーパミンの放出を阻害されたショウジョウバエは、そうでないショウジョウバエと比べて2倍も多く記憶を保持していたことが明らかになりました。この結果から、デイヴィス氏は「ショウジョウバエは新しい記憶が作られた後、ドーパミンの放出によって記憶が消去される忘却システムが働く」と結論づけました。

また、北京の清華大学の脳科学教授であるイ・チョン氏は、マウスの脳を操作して海馬におけるRac1というタンパク質の活動を阻害すると、マウスが記憶を保持する時間が延長されることを突き止めました。反対にRac1の活動を活性化させると、マウスはすぐに記憶を失いやすくなってしまったとのこと。

デイヴィス氏とチョン氏は2017年に共同して執筆した論文で、「脳が記憶を忘却するのは、脳に備わった基本的な機能である可能性がある」と述べました。2人は記憶消去がある程度外的な要因に左右されることを認めつつも、脳は低レベルな記憶消去を慢性的に行っており、新たに獲得した記憶を徐々に消し去っていくのかもしれないとしています。

by Lara

さらに、神経発生と呼ばれる現象が記憶の消去に関わっている可能性も示唆されています。ニューロン新生や神経形成とも呼ばれるこの現象は、神経幹細胞前駆細胞から新たな神経細胞が分化するもので、新たな記憶の形成に関わっていることが判明しています。

従来の研究では、マウスの海馬における神経発生を阻害すると新たな記憶形成を妨げ、神経発生を促進すると新たな記憶形成をより強化するとわかっていました。ところが、トロント大学の神経学者であるポール・フランクランド氏が実験したところによると、記憶を植えつけるために訓練した後に神経発生を促進したマウスでは、訓練した後に神経発生を促進しなかったマウスよりも1カ月後の記憶定着率が低下していることが判明したそうです。

フランクランド氏は、神経発生によって新たな回路が海馬に形成されることで、古い回路から記憶を取り出しづらくなってしまうのかもしれないとフランクランド氏は語りました。海馬に蓄積された短期的な記憶が長期的な記憶に変換され、脳の皮質に広がっていく前に、神経発生によって忘却されてしまう可能性があります。

by svklimkin

脳の積極的な忘却システムが基本的な機能であるならば、それによって消去されてしまった記憶は脳から完全に消し去られてしまうのでしょうか。忘れられた記憶が完全に脳から消えてしまうのかという疑問に関連して、ドミニカン大学ロバート・ヤゲマン氏らの研究チームは、ウミウシを使って記憶の定着についての研究を行ってきました。

ヤゲマン氏らはウミウシの体の片側だけに電気ショックを与え、電気ショックに対してウミウシの体の一方だけに大きな反応が起きるように訓練しました。その後、1週間の期間を空けてウミウシの脳から電気ショックの記憶が消えるのを待ち、ウミウシが電気ショックの記憶を忘れたころにもう一度電気ショックを与えました。すると、以前に訓練したウミウシの体の一方だけが、電気ショックに対してより敏感に反応したとのこと。

「この結果は、以前に訓練した時の記憶の断片が、脳の片側に残っていたことを示しています」とヤゲマン氏は述べており、1年の寿命しか持たないウミウシにとってはかなりの長期間といえる1週間が経過した後でさえ、記憶が完全に消し去られていないことを示唆しました。

by Dominican University

記憶の消去がある程度能動的な働きによって行われる以上、忘却のプロセスを人為的に操作することができるかもしれません。ヤゲマン氏は人間における記憶の忘却プロセスが明らかになれば、人々が嫌な記憶を消去することや、大切な記憶を長く保持することができる可能性があると考えています。

また、アルツハイマー病や認知症のように記憶が失われてしまう病気の治療にも、有効な手立てが見つかるかもしれないとのこと。フランクランド氏はPTSDの治療にも記憶忘却のプロセスが応用できるかもしれないと考えており、「トラウマとして残ってしまった記憶を消去して、PTSDが治療できるかもしれません」と語っています。麻薬やアルコールへの依存症患者に対する治療にも、記憶忘却のプロセスが応用できる可能性があるとフランクランド氏は話しました。

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