サイエンス

1991年に「21世紀のユビキタスコンピューティング」を予言した論文「The Computer for the 21st Century」


いつでもどこでも情報通信技術を利用できる世界である「ユビキタス」という概念は、1991年にゼロックス・パロアルト研究所の主任コンピューターサイエンティストだったマーク・ワイザー氏が書いた論文「The Computer for the 21st Century」で初めて登場して世に知られることになりました。インターネットが誕生しスマートフォンなどの小型のモバイル端末が開発され、さらにクラウドコンピューティングの登場によってユビキタス社会が実現しつつあるわけですが、本論文で描かれた「21世紀のユビキタスコンピューティングの世界」には目指すべきコンピューティングの未来が示されており、21世紀になった現在でも示唆に富んでいます。

The Computer for the 21st Century
(PDFファイル)https://www.lri.fr/~mbl/Stanford/CS477/papers/Weiser-SciAm.pdf


ワイザー氏は、まだ、パーソナルコンピューター(PC)が家庭に浸透しているとはいえない1991年に「The Computer for the 21st Century」を発表しました。コンピューターが一般的ではない中で未来のコンピューティングを語るという離れ業を行うために、ワイザー氏は「Writing(筆記)」という例から論文を書きだしています。

「革新的な技術とは消えていく技術だ」とワイザー氏は述べています。これは、技術があまりにも一般的になり日常にありふれたものになると、技術そのものの存在は人々の意識から消えてしまうからだとのこと。ワイザー氏は、世界で初めて生まれた情報技術の「筆記」は、まさのこの意味において革新的な技術だと考えています。


かつて、人間は口づてによる伝承によって技術を受け継いできましたが、人間の記憶や語り手のリソースの問題から、情報を保存する技術は限られていました。しかし、筆記という情報を物理的なものとして保存する技術が登場したことで、科学技術や文化的素養は大きく発展し、近代社会を築き上げるまでに至りました。革新的な技術だった筆記ですが、今では本、広告、メモさらには落書きに至るまで、日常生活の中でありふれた存在になった結果、筆記という技術自体を意識することはなくなっています。人々の意識から消えた技術にまで到達した筆記は、その意味で真に革新的な技術と言えるわけです。そして、21世紀のコンピューティングにおいては、「コンピューター」は人々の認識から消えるほどありふれた存在になりユビキタスが訪れるとワイザー氏は予言しました。

1991年当時、一般人にとってPCは「難しいもの」という先入観があり、それ自体を強く意識せざるを得ない存在だったとのこと。この難しいと思える原因について、ワイザー氏は操作性を妨げるUIの問題だけでなく、「パーソナルコンピューター」というネーミングが間違いだったと考えています。当時、最高のノートPCさえ単なる1つの機械にすぎず、ノートPCを持つことは「筆記」の世界でいえば本を一冊しか持たないのと同じだとワイザー氏は述べています。また、音声やムービーを利用できるとしても、画面を常に意識する以上、真のマルチメディアとは呼べず、特別なメガネをかけ特別なスーツを着て特別なグローブで操作する仮想現実などは、革新的な技術と呼ぶべき情報技術とは程遠いとのこと。


当時のPCやアラン・ケイ氏が提唱した「Dynabook(ダイナブック)」、Apple Computerのジョン・スカリーCEOが提唱した「Knowledge Navigator(ナレッジナビゲーター)」などはすべて過渡期のコンピューターであり、コンピューターが生活環境の一部に組み込まれることで初めてユビキタスが実現するはずだとワイザー氏は予想しました。

従来型のコンピューターとは違いユビキタスを実現するプロトタイプ(試作品)として、当時のパロアルト研究所では「Tab(タブ)」「Pad(パッド)」「Board(ボード)」という3種類の端末を開発していました。「タブはポストイット、パッドは紙、ボードは黒板のようなもの」だとたとえており、大きさや役割・機能が異なるものの、各端末は相互に連携することが想定されていました。


・タブ
最も小さな「タブ」は、電卓のようなサイズの端末です。タブでは情報を表示することだけでなく、個人の情報を保持する機能を持たせることが想定されていました。当時、パロアルト研究所ではドアのロック認証を行うための名刺サイズの電子キー端末「Active Badge」を開発していましたが、Active Badgeはタブの原型といえそうです。


タブによって開錠するだけでなく、位置情報を共有したり、会議の出席を記録したり、他の情報端末から自分のデータを引き出すための認証ツールとしても使えるとのこと。21世紀ではタブはスマートフォンによって実現したと考えてよさそうです。


・パッド
タブよりも一回り大きな薄型ディスプレイ端末が「パッド」です。パッドは薄型のノートPCとは似ても似つかないものだとワイザー氏は述べています。「ノートPCはどこでも持ち出せるが、持っていかねばならないだけで大失敗だ」とワイザー氏。個性があるノート型「パーソナル」コンピューターと違って、相手に応じて表示させる内容を変えられるのがパッドであり、タブを使って自分専用の情報を映し出せるようにパッドは没個性であることが求められるとのこと。

また、世界中で同じ規格のパッドはどこにでもあるのが重要で、複数のパッドを並べて巨大なディスプレイを作り出すことも可能な設計になっています。大きさや形状、機能から、タブレット端末とクラウドサービスを組み合わせることでパッドはすでに実現したといえます。


・ボード
そして、ユビキタスコンピューターとして最も大きなサイズが「ボード」。家庭の壁に設置されたボードはテレビにもなれば掲示板にもなり、オフィスではホワイトボードやフリップチャートの代用にもなります。もちろんボードは遠隔地と表示内容をそろえる同期機能を搭載しています。

ワイザー氏はボードは従来型のキーボードとマウスを使うPCとは違い、「電子チョーク」を使って操作すると想定していました。チョークは接触させて文字を書くこともでき、遠隔から操作をすることも可能だとのこと。また、背の低い人の場合、チョークでボードの上部を触ることが難しいことから、従来のキーボードとマウスを使うことが前提のソフトとは違うソフト開発の必要性があるだろうと指摘しています。ボードはMicrosoftの「Surface Hub」やGoogleの「Jamboard」などがイメージとしては近そうです。

あくまでタブ、パッド、ボードはユビキタスを実現するツールとしてはほんの入り口に過ぎないと考えていたワイザー氏によると、ユビキタスコンピューティングを実現するために必要な要素は「低価格な端末」、それらをつなげる「ネットワーク」、そして普遍的なアプリケーションを実現する「ソフトウェア」の3つだと述べています。


「低価格な端末」の実現についてはワイザー氏は非常に楽観的に考えていました。1991年当時、640×480解像度のディスプレイ、16MBのストレージは、10年後には1000×800で薄さ1センチメートル以内で軽さ100グラムのディスプレイ、GBクラスのストレージが誕生するだろうと予想していました。そして、ゆくゆくはTBクラスのストレージがごく普通に売られるようになり、古い情報を削除する必要はなくなると予想していましたが、どうやら後半の予想は外れたようです。

他にもワイザー氏は、タブが電子キーやメモ帳として便利だとしても、ライバル会社のスパイに奪われれば一大事になるはずだと述べ、暗号システムの重要性を説き、コンピューターのハッキング被害を想定して、「デジタル指紋」が残るシステムにも言及しています。また、コンピューターの存在が意識できない社会が実現すれば、机を並べて隣に座っているのにみながコンピューターに向き合うだけで同僚の存在を認めないような1991年現在の状況はがらりと変わるとワイザー氏は考えていました。当時の仮想現実によって現実世界が消えてしまうようなコンピューターの世界とは違い、真のユビキタスコンピューティングでは、存在を消したコンピューターのサポートによって、人間同士の交流がより簡単になり、現実世界をより深いレベルで体験できるようになるはずだというわけです。これは、SNSなどのツールによってやはり実現しているといえそうです。


ワイザー氏は論文の最後で20世初頭の「鉱石ラジオ」について触れています。当時、ラジオを趣味にしていたのは鉱石ラジオを作ることができる技術に明るい人たちだけでした。しかし、1991年時点では鉱石ラジオよりもはるかに性能のよいラジオが生活空間にあふれるようになった結果、鉱石ラジオを自作するような人はめっきり減りました。コンピューターでも同じことが起こるはずで、ユビキタスコンピューティングが実現すると、「コンピューターオタク」は減るだろうとワイザー氏は予言しました。「何よりも重要なことは、ユビキタスコンピューティングによって、情報過多の問題を乗り越えられるだろうということ。森の中は、現在あるどんなコンピューターシステムよりも多くの情報であふれているのに、コンピューターでフラストレーションを感じる人はいても森の散歩でフラストレーションを感じる人はいない。コンピューターがどこにでもありふれて利用を強制されないようになり、人間の生活にフィットするようになれば、コンピューターの利用は森の散歩のように快適になるだろう」と述べて、ワイザー氏は論文を締めくくっています。

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