感情の黄金比「3対1の法則」に数学的根拠がないと見抜いたのは中年の素人だった


幸福は「ポジティブな感情」と「ネガティブな感情」の比が約3に転換点を持つという「ロサダの法則」(いわゆる3対1の法則)は、心理学の研究として発表されるとさまざまな論文で引用され、世間では「3褒めて1叱るべし」という謎の教育黄金比をも生み出すほど社会に大きな反響を呼びました。その後、「元論文の数学的根拠が皆無」と指摘されて、アメリカ心理学会が法則を正式に否定することになったこのロサダの法則は、数学や心理学などのアカデミックな分野にはいなかったある中年のイギリス人男性の指摘から崩壊することになりました。

The British amateur who debunked the mathematics of happiness | Science | The Guardian
https://www.theguardian.com/science/2014/jan/19/mathematics-of-happiness-debunked-nick-brown

2005年に心理学者のバーバラ・フレデリクソン博士とマーシャル・ロサダ氏によって、「人間が幸福を感じる転換点は、ポジティブな感情とネガティブな感情の比が2.9013のバランスにある」と結論付ける論文「Positive Affect and the Complex Dynamics of Human Flourishing」が発表されました。これは、否定的な感情の量を1としたときに、それを約3倍上回る肯定的な感情がある場合に人は幸福を感じ、反対に比率が小さければ幸福を感じなくなるというわけで、幸福を数値化することに成功した心理学研究として非常に画期的な結論でした。

ビジネスコンサルタントとして非線形動力学を専門としていたロサダ氏は、「Positivity(ポジティブ心理学)」を研究するフレデリクソン博士に対し、理論に適用できる複雑なダイナミクスを提供。このフレデリクソン博士の研究から数学的に編み出されたのが、「2.9013:1」という幸福の黄金比でした。ロサダの法則を記したフレデリクソン博士の論文は、他の研究に350回以上も引用されることになり、さらにフレデリクソン博士自身によって「ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則」として一般書として書籍化されたこともあり、その後に「教育においては、3褒めて1けなすのが良い」という派生バージョンが現れるほどブームとなりました。

Barbara Fredrickson: The Positivity Ratio - YouTube


フレデリクソン博士はノースカロライナ大学で心理学を研究する著名な学者であり、アメリカ心理学会会長を務め「ポジティブ心理学の父」と呼ばれたマーティン・セリグマン氏をして「彼女は『ポジティブ心理学における天才』だ」と言わしめる存在であり、フレデリクソン博士の発表したロサダの法則を数学的に検証したり、ましてや科学的に疑ったりする人はほとんどいなかったそうです。


当時、イギリスのITネットワーク事業の責任者の職から早期退職して大学院で心理学を学び始めていたイギリス人のニック・ブラウン氏は、心理学会というアカデミックな世界出身ではないという「駆け出しの素人」でした。しかし、心理学においては素人のブラウン氏はケンブリッジ大学で工学とコンピューターサイエンスの学位を取得していたという点で、数学的な素養としては一般的な心理学者以上の知識を持ち合わせていたとのこと。心理学の素人のブラウン氏は、有名なロサダの法則を自分で検証したところ、確かに論文で検証された数字が方程式に当てはまるものの、その他のデータが含まれておらず、法則(方程式)はあくまで"自己参照"しているのみであることに気付いたそうです。


ブラウン氏はロサダの法則に科学的な根拠がないことを明らかにするために、アラン・ソーカル博士に協力を求めました。ソーカル博士は数学や科学を権威付けに利用する人文評論家を批判するために擬似哲学論文「(PDFファイル)Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity」を執筆したことで知られる物理学者であり、科学的な裏付けのない理論に対する批判的な目をもつ職人気質の科学者でした。ブラウン氏はソーカル博士に「自分は名もない大学院生で、自分の主張をアカデミックな論文として発表する術を持たない。発表したところで論文が採択される可能性は低い」という理由をメールで送ったそうで、受信から数週間後にメールに気付いたソーカル博士は、協力することを了承しました。

ソーカル博士によると、ブラウン氏の極めて長い批評の内容は自身の専門分野ではなかったものの、数学や物理学の理論としては初歩的なものであり、ロサダ・フレデリクソン論文の間違いをすべて指摘していたとのこと。「心理学における引用の実態を知りませんが、物理学では論文が350回も引用されれば非常に重要な研究であることを意味しています。Googleで検索すれば2万7000回のヒットがあり、問題の論文がビジネスやビジネススクールと交わり、大きなお金が動いていることが分かりました」とソーカル博士は述べています。

あまりにも長い批判的な論文をもっと短くするように指導したソーカル博士は、ブラウン氏にアメリカ心理学会へ論文を持ち込むようにアドバイスしました。なお、当時、「(ブラウン氏の)ドラフトは面白く作風が好みだ」と感じていたソーカル博士は、自身が共同執筆者として論文に名を連ねることになるとは思っていなかったそうです。

とはいえ、ポジティブ心理学の権威となっていたフレデリクソン博士が共同編集者を務める出版社にフレデリクソン博士の研究を批判する論文の批評を求めることは難しかったとのこと。そこで、ロサダの法則に疑念を抱いていながら数学に精通していなかった心理学者のハリス・フリードマン博士にもブラウン氏・ソーカル博士の研究に加わってもらい、さらに議論が深められたそうです。

その後、3人の共著としてアメリカ心理学会に提出された最初の論文は「The Complex Dynamics of an Intellectual Imposture(知的な詐欺の複雑な力学)」というあまりにも挑発的なタイトルだっため、拒絶されることになりました。「Imposture」という単語がフレデリクソン博士とロサダ氏が「意図的に欺いた」というニュアンスを感じさせたことから論文が拒絶されたのを受けて、3人はアメリカ心理学会と多くの折衝を重ねた結果、最終的に「The Complex Dynamics of Wishful Thinking(希望的観測の複雑な力学)」という、ささやかな刺激を含んだタイトルとして受理されることになったそうです。

The Complex Dynamics of Wishful Thinking:The Critical Positivity Ratio
(PDFファイル)http://www.physics.nyu.edu/sokal/complex_dynamics_final_clean.pdf

ブラウン氏らの論文が公開されると、ロサダの法則の数学的な裏付けが完全否定されることになりました。その後、フレデリクソン博士はロサダの法則の数学を真に理解したことはなかったことを認め、数学的な部分の欠陥は受け入れましたが、それ以外の研究成果に問題があることは受け入れなかったそうです。一人の駆け出しの心理学の研究生によって数学的な欠陥が指摘され、理論自体が崩壊したロサダの法則ですが、心理学者の多くは数学を深く理解していることは少なく、ロサダの法則のような心理学者に求められていない数学に対する抵抗力のなさは、心理学の科学的な信頼性を揺るがしかねないと指摘されています。

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