現代のレコーディング現場に欠かせないピッチ補正ソフト「Auto-Tune」を作った数学の天才に迫る


歌手が録音した歌で少し音程がズレた部分を、後からコンピューターで補正するソフトウェア「Auto-Tune」(オートチューン)は、あらゆる意味で現代の音楽産業にはなくてはならないものとなっています。このソフトウェアを開発したアンディ・ヒルデブランド氏は音楽畑を進んできた人ではなく、実はオイルマネーに群がる石油産業でソフトウェアエンジニアとして開発を行っていた「数学の天才」でした。

The Mathematical Genius of Auto-Tune
https://priceonomics.com/the-inventor-of-auto-tune/

Auto-Tuneは1997年に発売された音程補正用ソフトウェアです。それまでの補正機能よりも正確で、自然な効果が得られる性能が人気を集め、あっという間にレコーディング業界に浸透するに至りました。しかし、一般のリスナーにもその名前が知れ渡ったのは、補正設定を極端にすることで生じる機械的な歌声の面白さが作品として発表されたことでした。

その代表格と言えるのが、1998年にアメリカの歌手、シェールが発表した「Believe」という楽曲。歌い始めからサビにいたるまでの部分の歌声がAuto-Tuneで加工されており、日本では「ケロケロボイス」とも呼ばれる独特の雰囲気を持つ仕上がりが生まれています。この時点ですでにベテラン歌手の領域に入っていたシェールはほとんどピッチ補正を使う必要性がなく、微修正するためだけにAuto-Tuneを導入していたのですが、エンジニアが極端な補正をかけてみたところ面白い効果が得られたので、実際の作品にも採用したそうです。

Cher - Believe Offical Music Video HD-Quality


この他にも、ダフトパンクのOne more timeやT-ペインのI'm Sprungなどの楽曲で使用され、Auto-Tuneは「音程外れを直す」という目的の上を行く、独自の風味を音楽にプラスするためのツールとしても使われるようになりました。日本でも多くのアーティストが導入しており、SEKAI NO OWARIのRPGや、「ドラゲナイ」という言葉を生んだDragon Nightなどが有名。そして何よりも多くの人の耳に入っていると思われるのが、Perfumeの代表曲の一つ、「ポリリズム」で聞かれるケロケロボイス。「どうやったらあんな歌声が!?」と話題になりましたが、文字どおり「人間業」(にんげんわざ)ではなかったというわけです。

[MV Perfume「ポリリズム」


このソフトウェアを開発したヒルデブランド氏は、音楽業界においては異色といえる経歴を歩んできた人物。子どものころから「ほかの子とは違った」と自らが語るヒルデブランド氏は、読書が大好きな「本の虫」だったとのこと。学校の授業にはまったく身が入らず、先生から手首をピシャリと定規で叩かれてしかられることも度々あったといいます。次第にほかの児童の邪魔になるという理由で学級の一番後ろに席を移動させられることになりますが、「他の子からの目線を気にしなくて済む」とますます授業に身が入らなくなったとのこと。

そしてついに2年生に進級できなくなったというヒルデブランド少年でしたが、そこから徐々に学業の成績は上昇することに。小学校を卒業する頃には上から3番目の「C」の成績を取れるようになり、中学校時代には初めての「B」を獲得。高校時代には時おり「A」を取るように進歩を続けたそうです。そして科学の世界に目覚めたヒルデブランド青年は1976年、イリノイ大学で電子工学の博士号を取得するに至ります。

博士論文では、信号処理における線形推定理論の応用で秀でた研究結果を残したというヒルデブランド氏は大学卒業後、巨大オイルコングロマリットの一つ「エクソンモービル」に職を得ます。そこでヒルデブランド氏は、地面の振動データを分析してドリルの先端「ドリルビット」がどの位置に存在しているかを推定する仕事にあたりました。

By Linda Flores

エクソンモービルでの仕事が3年に差し掛かった頃、同社では大きな問題が発生。7年にわたるアラスカパイプラインの建設計画が大詰めに差し掛かっていたのですが、実際の建設は予定どおりに進んでいなかった模様。もし予定どおりに原油の搬送を開始することができなくなったら、実に5億ドル(1970年台後半のレートで約1000億円程度)という減税措置を受けられなくなり、エクソンモービルは財務上の大打撃を被ることになります。その問題を解決するチームに入れられたのがヒルデブランド氏でした。

ヒルデブランド氏いわく「非常に多くの高度な数学」が要求される事態解決を託されたチームでしたが、見事にその仕事をやってのけたとのこと。ヒルデブランド氏はその時に、「1000億円を救う仕事ができたのだから、自分でも何かできるかもしれない」と考えて1979年、エクソンモービルを退社して、石油産業向けにソフトウェアを提供する企業「Landmark Graphics」を立ち上げました。

当時はまだ、地中の状況を分析する技術は未熟でしたが、ヒルデブランド氏がCTO(最高技術責任者)を務めるLandmark Graphicsは極めて多量のデータを解析することで、地中の状況を3Dで可視化するソフトウェアとハードウェアからなるワークステーションを開発。これが大当たりし、同社は1989年にIPO(新規公開株)を発行し、NASDAQに上場。6年後には石油および軍事産業などを手がける巨大企業「Halliburton Energy Services (ハリバートン)」に5億2500万ドル(1989年の円ドル終値:約144円換算で約756億円)で買収されています。


これによりもう働かなくても一生暮らせるほどの富を手に入れたヒルデブランド氏は、子どものころに熱中していた音楽を再び志すことにしたそうです。若い頃からフルートの演奏に長けていたヒルデブランド氏は、16歳の頃には地元のレコーディングスタジオに顔パスで出入りするほどの活躍をしていたとのこと。成功者となっていたヒルデブランド氏は、再び大学へと進んで今度は本格的な音楽の勉強を志しました。

シェパード音楽学校に進んだヒルデブランド氏は、当時普及が始まった段階だった「サンプラー」を使って作曲に取り組むことになります。しかし、当時のサンプラーはまだまだ性能が低く、奏でられる音はひどくて不自然なものばかりだったとのこと。「サンプリングシンセサイザーの音は本当にクソでした。音を伸ばしてみても、ずーっと同じ音がループして流れるだけの変な音だったのと、一番の問題は使われているデータがとても小さいということでした」と当時を振り返ります。

すでに仕事の呪縛から開放されていたヒルデブランド氏は、ソフトウェア解析の能力を活かして、よりなめらかで自然なサスティンや音色を奏でることができるアルゴリズムの開発に乗り出します。そうして開発されたソフトウェア「Infinity」をヒルデブランド氏は知人の作曲家に配布。すると、そのリアルな音と表現能力が話題を呼び、瞬く間にInfinityは支持を集めます。特に、オーケストラ関連の仕事をしていた作曲家から支持され、次第に作曲家は本物のオーケストラを使わずにInfinityで制作を行うように。ヒルデブランド氏は「ロサンジェルス・フィルハーモニックを破産させたのは私だ」と笑いながらいいますが、実際に同オーケストラは1990年代前半に厳しい経営状態に直面していたという事実が残されているとのこと。

しかしこの時、ヒルデブランド氏はソフトウェアの管理を厳密に行っていなかった模様で、徐々にInfinityを使って作成されたサンプリング音源が世に出回るようになり、Infinityならではの独自性が損なわれる時代が到来しました。ヒルデブランド氏が「市場が完全に崩壊した」と振り返るとおり、Infinityのビジネスは終焉を迎えることに。しかし、起業家の血が騒いだヒルデブランド氏は現在まで続くソフトウェア企業「Antares Audio Technology」を立ち上げます。そしてここで生まれたのが、音楽産業を変えたといわれる「Auto-Tune」でした。


Auto-Tuneが生まれたのは、ある雑談がきっかけだったとのこと。1995年、世界最大の楽器見本市である「NAMMショー」にAntares Audio Technologyのブースを出していたヒルデブランド氏は、数名の知人とランチをとっていました。そこで、「どんなソフトウェアがあればいいと思う?」と尋ねたヒルデブランド氏に対し、ある女性が「音痴の私でもうまく歌えるソフトが欲しいわ」と回答。しかしこの時、ヒルデブランド氏は「いいアイデアだ」とは思わなかったとのこと。むしろ、「ばからしいことを」とランチの場が白けそうになったほどで、この話題はすぐに忘れ去られることになったそうです。

NAMMショー後にいくつかのプロジェクトを進めていたヒルデブランド氏でしたが、なかなかうまくいきそうなものが現れなかったとのこと。そんな時に、ふと頭によみがえったのが「音痴補正ソフト」のアイデアだったそうです。

しかし、ひと口に「音痴補正」、正しくは「音程補正」とはいっても、簡単に実現できるわけではありません。それまでにも同様の機能を持つソフトウェアは開発されていましたが、いずれも性能が低く、あまり実用的なものは存在していなかった状況。ヒルデブランド氏はこの業界に、極めて大量のデータを処理する手法「自己相関」の概念を持ち込むことで、新たな風を吹き入れることになります。

そのアルゴリズムは複雑の極みで、普通の人は何が起こっているのかまったく理解できないレベルとのこと。「私の中ではそこまで複雑ではないんですが」と語るヒルデブランド氏ですが、同時に「でも、私が説明したことを理解できた人は一人もいません。なのでいつも『魔法みたいなもんですよ』と答えています」と語っています。


その「魔法」を詰め込んで開発した「Auto-Tune」をひっさげて、ヒルデブランド氏はなんと翌年1996年のNAMMショーにブースを出展。するとヒルデブランド氏が「人々が来ては次々に買って帰っていった」と語るとおり、大反響を呼んだとのこと。こうして、Auto-Tuneは瞬く間に多くの人の関心を集め、プロの現場でも活用されるようになりました。


そしてこのAuto-Tuneを広く知らしめたのが、冒頭に記したシェールの「Believe」でした。まるでロボットのような声に驚いた人は多く、この記事を書いている編集部員も、クルマの運転中に聞いていたFMラジオの洋楽チャートで初めてこの曲を聴いた時に「なんじゃこれは!?」と気をとられて、事故を起こしそうになったほど。そして次第に「あれはコンピューターで後加工しているらしい」「使われてるソフトはAntares Audio TechnologyのAuto-Tuneっていうソフトらしい」という情報が広まるようになり、その知名度は瞬く間に音楽好きやクリエーターの間に広まっていきました。

Auto-Tuneの特許文書に示されている図の一例がコレ。おそらく、いくつもの解析と処理を経て最終的なピッチ補正が行われるに至っていることだけは素人目にも理解できます。


音楽業界に衝撃を与えたAuto-Tuneですが、その破壊力は楽曲の仕上がりだけではなく、音楽産業そのものの構図を書き替えるに至っています。Auto-Tuneのようなピッチ補正ソフトが登場するまでは、ボーカリストは「歌入れ」の際に何テイクも同じ部分を歌い、最後に最も良く歌えている部分を複数のトラックからピックアップし、組み合わせることで1つのボーカルラインを造り上げる、という作業を行っていました。その作業を専業とするエンジニアも存在していたほどで、メジャーレーベルの仕事であれば一曲で6万ドル(約600万円)を請求することもできたほど。しかもその作業には何日もの時間を要し、費用と時間の両面で負担となっていました。

しかしAuto-Tuneの登場でこの状況が一瞬にして消え去りました。それまで何日もかかっていたボーカルラインの修正は、レコーディング後にマウスとキーボードでサクッと作業するだけで完了。もちろん、歌入れの際にはベストなテイクを求めて何度も歌い直しをするのですが、「このテイク、声のノリとか雰囲気は一番いいんだけど、サビの最後でちょっと音外してるんだよな~」というささいな不具合があってもサクッと修正してしまえるという、パフォーマーにとっては「魔法」のようなことが実現してしまったというわけです。

もちろん、この補正技術に対しては反対の姿勢を示すアーティストもいます。有名ギターブランド「Paul Reed Smith」の設立者であるポール・リード・スミス氏がヒルデブランド氏と対話した際に、スミス氏はヒルデブランド氏に対して「あなたは西洋音楽を完全に破壊してしまいましたね」と、半ば責めるように語ったとのこと。デジタル技術を使ってパフォーマンスに手を加えることは、やはり心血を注いで作品を作るアーティストにとっては「聖域」を侵されたと感じられてしまうことは当然と言える部分もあります。反対派の中には、オルタナティブ・ロックバンド「Death Cab For Cutie」のように、「反Auto-Tuneキャンペーン」を立ち上げた者も。また、カントリーミュージックの世界などでも、アーティストの声にメスを入れるような行為に反対する声が根強く存在しています。


このような声に対し、ヒルデブランド氏は「Auto-Tuneを批判するのであれば、スピーカーという装置についても批判すべきでしょう。また、シンセサイザーやレコーディングスタジオ、そもそも人の声を録音すること自体も、それは『不自然』というものです」と反論しています。しかし、このような反対意見に関してはあまり意に介していない様子も。すでにAuto-Tuneからもヒルデブランド氏は多くの富を得ているのに加え、2018年にはAuto-Tuneの特許が失効するというのもその背景にある模様。

反対派の声があることに対しヒルデブランド氏は笑みを浮かべながら、「時おり私はこう人に言います。『私は自動車を作ったけれど、高速道路の反対車線を走ったわけではない』と。でも、気にくわない人はいつも文句を言うものです」と語ったそうです。

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