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Appleの最初の従業員でジョブズとウォズニアックを引き合わせたある男の物語

By Revol Web

スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックの2人がAppleを創業したのは有名な話ですが、ジョブズとウォズニアックを引き合わせAppleの最初の従業員として雇われたビル・フェルナンデスの存在はあまり多くの人に知られていません。そんなフェルナンデスの知られざる人生に、ZDNetおよびTechRepublicの編集者であるジェイソン・ハインナーがフォーカスしています。

Apple's first employee: The remarkable odyssey of Bill Fernandez - Feature - TechRepublic
http://www.techrepublic.com/article/apples-first-employee-the-remarkable-odyssey-of-bill-fernandez/

5歳の時にカリフォルニア州サニーベールに引っ越したフェルナンデスは、スタンフォード大学で極東文化を専攻していた母がデザインを手がけた日本スタイルの家で幼少期のほとんどを過ごしました。フェルナンデスの父親は法廷弁護士であり、サニーベール市長として勤務していた経験を持つ人物です。

フェルナンデスの隣の家に住んでいたのが4歳年上のウォズニアック。電子機器という共通の趣味を持つ2人は、フェルナンデスが16歳の時に自分たちだけのPCを作ろうと、フェルナンデスの家のガレージでPCを作り始めます。ウォズニアックが思い浮かんだアイデアをノートにまとめ、その設計に沿って2人は数年がかりでPCを開発。ただし、2人が作ったPCはマイクロプロセッサやキーボード、スクリーンがなく、今考えるとPCにはほど遠かったものだったとのこと。

By Mario Sixtus

初めてPCを作った2年後、フェルナンデスは中学校の友達だったジョブズと遊んでいるときに、たまたまウォズニアックを見つけ、2人を引き合わせます。フェルナンデスとジョブズは中学から高校まで多くの時間を共に過ごし、ジョブズがフェルナンデスの日本スタイルの家に興味を抱いていたこともあったそうで、フェルナンデスは後に「母の家はジョブズのデザインセンスに重要な影響を与え、ミニマリズムを好きなった要因の1つだと思う」と発言しました。

フェルナンデスの紹介で知り合ったジョブズとウォズニアックはすぐに意気投合し、Apple Iの開発を手がけ自分たちでAppleを創業。ただし、ウォズニアックはAppleの創業当時に働いていたHPを退社する準備ができていませんでした。一方、ジョブズはAppleだけに集中していましたが、1人でやっていくには無理があり、フェルナンデスに声をかけることになりました。


フェルナンデスは1977年にAppleに入社し、Appleとしては初めてのフルタイム従業員になりました。オフィスもなかったAppleはフェルナンデスとジョブズの家で主な作業を行い、HPに勤めていたウォズニアックは仕事が終わると参加するといった感じで、会社としての形態はなかったものの、3人は「前に進んでいる」という実感を強く感じていたとのこと。そして、1977年4月にAppleはApple IIを発表し大企業への階段を上り始めます。

Appleは1978年に株式公開に向けて準備を進めており、社内では自社株購入権(ストックオプション)について議論が交わされていました。自社株購入権についてAppleが下したのは給与を支払われている正社員のみ自社株購入権を与えるという決断で、時間給のエンジニアや秘書は自社株購入権を獲得できないというもの。フェルナンデスは当時時間給従業員として働いていたため、自社株購入権を得られず、Appleの従業員に対する誠意が感じられないことに不満を抱き、同年に退社することになりました。ただし、ウォズニアックは自分の所有しているAppleの株式をフェルナンデスを含む早期メンバーに配布したそうです。

By Alistair Israel

Appleを退社した後、フェルナンデスはPCの部品メーカーに入社しますが、これも1年後に退社。合気道の茶帯を取得していたフェルナンデスが働く場所として次に選んだのはアメリカではなく、日本でした。フェルナンデスは1979年に日本の札幌に来て、英会話の先生をしながら違う文化で生活するという経験し、さらにはミュージシャンとして働くこともあったそうです。

しかしながら、ビザの関係で来日から2年後にフェルナンデスは祖国のアメリカに帰ることになります。帰国後、働き先を探していたフェルナンデスはジョブズに「仕事を紹介してくれないか」と頼み、Appleに戻ることになりました。

フェルナンデスが戻った時のAppleは、退社したときとは全く違う会社へと成長を遂げており、ジョブズはMacintoshの開発プロジェクトにフェルナンデスを招き入れます。ただし、フェルナンデスは以前の電気技師としてではなく、Macintosh External Disk DriveMacintosh External Video Portのプロジェクトマネージャーや、Macintoshの開発部署が入る予定だったBandley 4というビルの設計にもチームの一員として参加しました。

By Grant Hutchinson

フェルナンデスはMacintoshの開発チームの仕事を通して、ハードウェアとソフトウェアのUIデザインの技術を磨き、Macintoshのリリースから2年後にソフトウェアUIのデザイナーとして働きだし、社内でUI魔術師と言われるまで成長。フェルナンデスは「私はエンジニアリングよりUIデザインに一層の親近感を抱いたんです。自分が興味を持っていると気づいた後は、エンジニアからUIデザイナーへと徐々に仕事をシフトしていきました」と当時を振り返ります。

QuickTimeやOS 7のフォルダデザインの開発に携わりますが、1993年にAppleは資金繰りのために長い期間働いている高給の社員を解雇するという決断を下し、フェルナンデスも解雇リストの中に名前を連ねていました。再びAppleを去ることになったフェルナンデスですが、退社後は複数の企業で経験を積み、1998年にBill Fernandez DesignというUIコンサルティングの会社を創設します。


Bill Fernandez Designを2013年に解散した後は、未来のUIに対する情熱を形にするためOmniboticsという新しい会社を設立。Omniboticsが何をしているかは全くの謎に包まれていますが、「子どもが成長したし、今度は自分の夢をかなえるための会社を作りました。Omniboticsは人間と家の関係を新しい次元に持っていくのを実現する会社です」とフェルナンデスは語っており、おそらくホームオートメーションに関するものではないかと予想されます。

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in メモ, Posted by darkhorse_log

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