スタジオジブリの宮崎駿監督が引退記者会見を実施、ネットでは生中継も


最新監督作である「風立ちぬ」が2013年7月20日に公開された、スタジオジブリの宮崎駿監督が都内で引退記者会見を実施しました。宮崎監督の引退は、9月1日にスタジオジブリの星野社長が第70回ベネチア国際映画祭公式会見で明らかにし、本人の登壇する会見を改めて行うことが発表されていました。

スタジオジブリ 宮崎駿監督 引退記者会見 - 2013/09/06 14:00開始 - ニコニコ生放送
http://live.nicovideo.jp/watch/lv151185497

登壇した宮崎監督は「何度も言っているからまたかと思われるかもしれませんが、今回はマジです」と、記者の笑いを誘っていました。

・つづき
あの宮崎駿監督が引退を撤回し「長編アニメ」に復帰することを鈴木プロデューサーが明らかに - GIGAZINE



「ボロボロになっての引退はかっこわるいと思っていたので、これがいいタイミングだった」とは鈴木敏夫プロデューサー。スタジオジブリの今後については、11月23日公開の「かぐや姫の物語」については何としても公開するということと、来年新作が1本あることが明かされました。

宮崎監督の引退の言葉については下記のような「引退の辞」が配布されました。

◆公式引退の辞

ぼくは、あと10年は仕事をしたいと考えています。自宅と仕事場を自分で運転して往復できる間は、仕事をつづけたいのです。その目安を一応“あと10年”としました。もっと短くなるかも知れませんが、それは寿命が決めることなので、あくまでも目安の10年です。
ぼくは長編アニメーションを作りたいと願い、作ってきた人間ですが、作品と作品の間がずんずん開いていくのをどうすることもできませんでした。要するにノロマになっていくばかりでした。“風立ちぬ”は前作から5年かかっています。次は6年か、7年か……それではスタジオがもちませんし、ぼくの70代は、というより持ち時間は使い果たされてしまいます。
長編アニメーションではなくとも、やってみたいことや試したいことがいろいろあります。やらなければと思っていること――例えばジブリ美術館の展示――も課題は山ほどあります。これ等は、ほとんどがやってもやらなくてもスタジオに迷惑がかかることではないのです。ただ家族には今までと同じような迷惑をかけることにはなりますが。
それで、スタジオジブリのプログラムから、ぼくをはずしてもらうことにしました。ぼくは自由です。といって、日常の生活は少しも変わらず、毎日同じ道をかようでしょう。土曜日を休めるようになるのが夢ですが、そうなるかどうかは、まぁ、やってみないと判りません。
ありがとうございました。
以上。
2013,9,4


◆質疑応答
朝日小学生新聞:
引退報道を受けて子どもたちからも「ありがとう」「やめないで」の声が届いています。子どもたちに届けたいメッセージは?

宮崎:
うーん……。そんなにかっこいいことは言えません。何か機会があって私たちが作ってきた映画を見てくれたら、何か伝わるかもしれません。それに留めさせて下さい。


読売新聞:
これは長編の監督を引退するという理解でよろしいでしょうか。また、これからやっていきたいと思っていることを具体的に教えて下さい。

宮崎:
この引退の辞は、我ながら良く書いたなと思いました(笑) そこに、私は自由ですと書いてあるとおり、「やらない自由」もあるんです。車が運転できる限りは、毎日アトリエに行こうと思っています。そして、やりたくなったことがあればやろうと思います。今は休息を取らなければいけない時期で、今ここで何か約束しても、たいてい破ることになるので、どうかご理解下さい。

IWJ:
1984年公開の「風の谷のナウシカ」ですが、続編をこの先作る予定は?

宮崎:
それはありません。


韓国KBS:
韓国のファンに一言お願いします。また、韓国で「零戦」のことについて話題になっていますが、どういったお考えをお持ちですか。

宮崎:
映画を見ていただければ分かると思っていますので、いろんな言葉に邪魔されないで、今度の映画を見ていただけたらいいなと思います。いろんな国の方々が私たちの作品を見て下さっていることは嬉しいと思っています。それと同時に「風立ちぬ」は作品モチーフとして日本の軍国主義が破滅に向かっていく時代を舞台にしていますので、いろんな疑問は家族やスタッフ、自分自身からも出てきました。それにどういう風に答えるかということで映画を作りましたので、映画を見なければ論にならないと思います。お金を払って映画を見ていただければ嬉しいなと。

朝日新聞:
ジブリの若手監督の作品に監修、アドバイザー、アイデア提供といった形で関与する考えはありますか?


宮崎:
ありません。

フジテレビ:
今回の引退は本気ですということですが、今回と今までの引退はどのように違うか、教えてください。

宮崎:
「風立ちぬ」を作るのに5年かかりました。次の作品を考え始めるとこの年齢だと5年じゃ済まない。「引退の辞」にも書いたが、次は6年かかるか7年かかるか……。あと3月もあると、私は73になってしまって、そこから7年かかると80です。このあいだ半藤一利さんと会ったが、半藤さんは83歳で、背筋は伸びて頭もはっきりしていて、これはいい先輩がいるなと。僕も83になってこうなれたらいいなと思っている。「あと10年は仕事を続けます」というのは言っているだけで、続けられればいいけれど、今までの仕事の延長線上にはないだろうと思います。僕の長編アニメーションの時代は、はっきりと終わったんだということです。今後「やりたい」といっても、それは年寄りの世迷い言だと片付けようと思っています。

SPA!:
引退を鈴木さんと話し合って決めたタイミングはいつで、どういった会話の中でしたか?

宮崎:
よく覚えてないですけど、「鈴木さん、もうダメだ」「そうか」と(笑) これ自体は何度もやってきたことなので、そのときに鈴木さんが信用したかどうかは分かりませんが、スタジオジブリを立ち上げたときにはこんなに長く続ける気がなかったというのも確かです。何度も何度も、引き時はどうするか、やめるかという話をしてきた。


鈴木:
正確には覚えていないが、「風立ちぬ」の初号試写が6月19日にあって、その直後だったんじゃないかと。宮さんからそういう話があったとき、これまでもいろいろな作品で「これが最後だ」と言っていたけど、具体的な言葉は忘れたが、今回は本気だなと感じざるを得なかった。というのは、僕自身がナウシカから数えて今年がちょうど30年目に当たるんですが、その間にいろいろありました。宮さんも言ったけれど、ジブリを続けていく中で、これ以上やるのはよくない、やめようとかやめまいかとか……。僕もこれまでの30年間、緊張の糸はずっとあったと思うけれど、今回これを言われたときに少し揺れたんですよ。別のいい方をすると、僕自身、ほっとするみたいなところがあった。若いときならそれをとどめさせようとか色々な気持ちが働いたと思うけれど、かっこつけなんですが、ご苦労様でしたという気持ちがわいた、というところもあると思います。何しろ、僕自身は引き続き、「かぐや姫の物語」を公開しなければいけないので、途切れかかった糸をつないで仕事をしている最中なんです。


引退については、みなさんにいつどのようにお伝えしようかということを話し合いました。その中で、みなさんに伝える前に言わなければいけないのは、スタッフに対してだと思ったんです。それをいつやって、いつみなさんに伝えるか。ちょうど「風立ちぬ」の公開が近づいていて、映画公開前に引退だと言ってしまうと話がややこしくなると思ったので、映画公開が済んで落ち着いた時期、8月5日に社内に伝えました。そこから一段落したらみなさんにも発表できるな、すると9月の頭だな、と、そう考えたのは確かです。

台湾 中国新聞社:
台湾の観光客は日本へ行くと必ず三鷹の森ジブリ美術館へ行きます。今や外せない観光名所になっています。ファンは監督の引退をとても残念がっているのですが、引退後、時間はたっぷりあるので、海外旅行をかねて海外ファンと交流する予定はありますか?

宮崎:
ジブリ美術館の展示その他について、私は関わらせてもらいたいと思っているので、ボランティアという形かもしれませんが関わるつもり。もしかしたら自分も展示物になってしまうかもしれないので(笑)、実際に美術館にぜひ来てもらいたいです。


AERA:
鈴木さんへの質問です。「風立ちぬ」を進めている段階で、これが最後だと予感するところはありましたか?ポニョで終わらせたくないという思いがありましたか?また、宮崎監督に、この映画を最後にすることで引き際の美学などあれば。

鈴木:
風立ちぬが最後になるかもしれないという予感はあったのか、という質問だと思いますが、僕は宮さんという人と付き合ってきて、彼の性格からして、ずっと作り続けるんじゃないかなと思っていました。それはどういうことかというと、死ぬまで、死ぬ間際まで作り続けるんじゃないか、すべてをやるのは無理だけれど何らかの形でやるのではないかと。その一方で、宮さんは別のことをやろうというときに、自分でいったん決めてみんなに宣言する人なんです。だから、これを最後に宣言して別のことに取りかかる、そのどっちかだろうと思っていました。風立ちぬを作って完成を迎え、さっきのような話が出て、それは僕の予想にあったので、素直に受け入れられたのだろうと思います。

宮崎:
映画を作ることに死にものぐるいで、そんなのは考えていませんでした。これは映画になるのだろうか、作るのに値するだろうか、というほうが重圧でした。

ロシア国営テレビ:
宮崎監督は以前のインタビューで、外国のアニメ作家から影響を受けたと語っていました。ロシアにはユーリ・ノルシュテインもいるので、その影響について教えていただきたい。

宮崎:
ノルシュテインは友人で、「負けてたまるか!」という相手です。彼はずっと「外套」を作っていますね、ああいう生き方もすごいと思います。今回、高畑監督に一緒に会見に出ないかと声をかけたら冗談ではないという顔をしていて、「彼はずっとやる気だな」と思ったりしました。


読売新聞:
これまで多くの作品を作ってきて、最も思い入れのある作品をあえて挙げるならどれですか?また、すべての作品を越えてこういうメッセージを入れようと意識したものがあれば。

宮崎:
うーん。一番トゲのように残っているのは「ハウルの動く城」です。ゲームの世界なんです。でも、それをゲームではなくドラマにした結果、本当に格闘しましたが、自分の立てた企画だから仕方がありません。僕は児童文学の影響を受けて業界に入った人間ですので、子どもたちに「この世は生きるに値するんだ」ということを知らせることが作品の根幹になければいけないと思っていて、それは今も変わっていません。

イタリア ANSA通信社:
イタリアを舞台にした作品をいろいろと作っていますが、イタリアがお好きなのでしょうか。また会見の感想ですが、半藤さんは83歳でご立派だが、日野原先生を目標にすればあと20年、30年生きられるので、そのほうがよろしいかと思います。また、ジブリ美術館は監督が館長をやった方がみなさん喜ばれると思います。

宮崎:
イタリアは好きです。まとまっていないところも含めて好きです。友人もいるし、食べ物も美味しいし、女性もきれいだし、ちょっとおっかないかなと思いますが(笑) 半藤さんのところに10年でたどり着けるのかということで、それ以上を望むのは、半藤さんがあと何年頑張って下さるか……半藤さんは10年先を歩いていて、ずっと歩いて行って欲しいと思っています。

美術館は、館長になって「いらっしゃいませ」としているよりも、展示が10年前のもので色褪せたりしているので、それを描き直したりしたいと思っています。自分が筆やペンで描かなければいけないものなので、それはぜひ、時間ができればやりたい、ずっとやらなければいけないと思っていたものです。展示品というのは毎日掃除しているはずなのに、いつのまにか色褪せるんです。その部屋に入ったときにくすんで見えるんです。そこを一ヶ所でもキラキラさせるとすごく目立って、子どもたちが群がることが分かったんです。美術館を生き生きさせるためには、そういうことをやらなければいけないということです。

映画ライター カナザワ:
長編アニメ監督の引退ということですが、美術館に関していえば短編も監督しています。これを展示の一環と考えると、短編は作られるのでしょうか。また、鈴木さんへの質問です。スタジオジブリはもともと宮崎駿監督、高畑勲監督が作品を作るために設立されました。高畑さんが現在作っている作品は最高傑作になるという話で、さらに来年新作があるということですが、今後はどうなるのでしょうか。

宮崎:
引退の辞にあるとおり、僕は自由です。やってもやらなくても自由です。今、そちらに頭を使うことはしません。前からやりたかったことをやりますが、それはアニメーションではありません。


鈴木:
ジブリはこれからどうするんだってことですが、僕はかぐや姫のあと、来年の企画に関わっています。僕も、年齢は宮さんより若いですが65歳でして、このじじいがどこまで関わるかという問題もあって。今後のジブリの問題は、いまジブリにいる人の問題でもあります。その人たちがどう考えるのか、それによって決まるんだと思っています。

宮崎:
今後については、やっと上の重しがなくなるんだから、「こういうものをやらせろ」という声が鈴木さんに届くのを願っています。そういうのがなければ、何やってもだめですよね。僕は30歳、40歳のときにはこれをやりたいと覚悟を持って企画書を書いていました。それをできる人がいるのかということにかかっています。鈴木さんはそういうものを門前払いする人ではありません。あとはそういったもの、能力にかかっているんだと思います。

サンデー毎日:
「風立ちぬ」が最後の長編作品になりましたが、これはやりたかったというもの、やらずにおわった企画などはありますか。

宮崎:
山ほどあるんですけれど、それにはやっぱりやってはいけない理由があったからやらなかったことなので、ここでは述べようもありません。それほど形にならなかったものばかりです。こういうものはどうだろうかと頭に出たり入ったりするものはありますが、それは人に語るものではありませんので、ご勘弁下さい。

フジテレビ とくダネ!:
「僕は自由です、やりたいことがあります」とおっしゃっていましたが、具体的にはどういったものでしょうか。また、宮崎監督は日本から海外へと発信されていた貴重な方です。別の形でやることはあるのでしょうか。

宮崎:
やりたいことはありますが、やれなかったらみっともないから言いません。そして、ぼくは文化人になりたくない、町工場のオヤジなんです。それを貫きたい。発信したいとかは思いません。

テレビ朝日:
当面は休息を優先するという理解でいいのでしょうか。「風立ちぬ」に関しては、原発や東日本大震災についての発言もあるが、そこで感じたことが最新作を作るにあたって与えた影響などあれば。

宮崎:
「風立ちぬ」の構想は、原発や震災の影響を受けてはいません。映画を始めるとき最初からあったものです。どこかでお話ししましたが、時代に追いつかれて追い抜かれたと感じました。僕の休息は他人から見るとそう見えないかもしれないもので、仕事を好き勝手やっているとそれが休息になったりしています。ごろっとただ寝転がっていると疲れたりもするので……東山道を京都まで歩けたらと思ったりしますが、途中で、行き倒れになるかもしれないので(笑)、実現不可能だと思います

朝日新聞:
「時代に追いつかれ、追い抜かれた」とのことだが、これは引退とは関係がありますか?

宮崎:
ありません。アニメーション監督が何をしているものなのか、みなさんよくわかってないとおもうが、それぞれで仕事のやり方は違います。僕はアニメーター出身なので描かなければいけない、そうすると、メガネを外してこうやって(顔を机に近づけて)描かなければいけない。体調を整えて節制していても、集中する時間は減っていく、それは実感しています。ポニョの時に比べて、机を離れるのが30分早くなっています。次の作品だと1時間早くなるかもしれない。その物理的な加齢の問題はどうしようもないし、それで苛立ってもしょうがない。「じゃあ違うやり方をすればいいじゃないか」というが、それができればとっくにやっています。できません。僕は僕のやり方を貫くしかないので、長編アニメーションは無理だという判断をしたんです。


フリーランス 清水:
「カリオストロの城」から始まって「風立ちぬ」で終わるフィルモグラフィ、何かを壊して世界を変えようとして作ってこられたと思うが、自称クールジャパンという今のアニメ世界をどのようにご覧になっていますか?

宮崎:
誠に申し訳ないが、私が「仕事をやる」ということは、映画もテレビも見ない生活をするということです。朝、ちょっとだけラジオを聞いて、新聞をぱらぱらっと見ますが、それだけ。驚くほど見ていないんです。ジャパニメーションがどこにあるのかすらわかりません。予断で話すわけにはいかないので、それに答える権利は僕にはないと思います。私の年齢になってデスクワークをやってみたらわかると思いますが、そういう気を散らすことはできないんです。参考試写として、スタジオの試写室で映画をかけてくれたりするんですが、途中で出てきてしまいます。「仕事をしなければ」って。だから、今がシオ(潮時)だと思います(笑)

時事通信:
引退宣言ということで、過去の映画監督は宣言せずに身を引かれた人もいるが、このように宣言しようと思ったのはなぜでしょうか。

宮崎:
しようと思ったんじゃなく、僕はスタッフに「辞めます」といいました。その結果、プロデューサーから「引退について取材の申し入れがあると、いちいち受けていたら大変だよ」といわれました。最初はアトリエで受ければいいんじゃないかと言っていたら人数が多すぎる、スタジオの会議室でも難しいという話になり、ここになっちゃったんです。これは何とかしないとまずい、口先でごまかすわけにはいかないので、公式引退の辞を書いたんです。それを見せたら「これはいいじゃない」とコピーしてみなさんに配ってということで、こんなイベントをやる気はさらさらなかったんです。ご理解下さい。

AP通信:
宮崎作品は商業的成功と芸術的評価とを両立したが、それをプロデューサーの言葉で語っていただきたいと思います。また、日本映画に及ぼした影響についてコメントをいただければ。

鈴木:
言い訳かもしれないけれど、そういうことはあんまり考えないようにしています。考えていると目の前の仕事ができなくなるので。僕は現実には、過去作品を振り返ることはありませんでした。なるべくそういうことは封じる。自分たちが関わった作品がどういう影響を与えたか、それもあまり考えないようにしていました。

宮崎:
まったく、僕も考えていませんでした。採算分岐点にたどり着いたと聞いたら「よかった」と。それで終わりです。


フランス:
先ほどイタリアは好きだとのことでしたが、フランスはいかがでしょうか。

宮崎:
正直、イタリア料理の方が口に合います(笑) クリスマスにたまたまフランスに行ったとき、どこのレストランへ行ってもフォアグラが出て辛かった記憶があります。ただ、ルーブルは良かったですよ。いいところはいっぱいあります。ありますけど、料理はイタリアの方が好き(笑) これはそんな大した問題だとは思わないで下さい。フランスの友人に、「イタリアの飛行艇じゃなくフランスの飛行艇映画を作れ」と言われたけれど、アドリア海だからフランスの飛行艇はないだろうという話をしたことがあります。ポール・グリモーという人が「やぶにらみの暴君」という作品を作って、1950年代に公開されて甚大な影響を与えました。これは僕というより、僕より5つ先輩の高畑監督の世代に圧倒的影響を与えました。それは僕らは少しも忘れていません。今見ても志や世界の作り方には感動します。いくつかの作品がきっかけとなって自分はアニメーターをやろうと決めましたが、そのときにフランス映画の方がはるかに大きな影響を与えています。イタリア作品もいくつかありますが、それを見てアニメーターをやろうと思ったわけではありません(笑)

共同通信:
1963年の東映動画入社から半世紀、振り返って一番辛かったなということ、アニメを作って良かったなということを教えて下さい。

宮崎:
辛かったのはスケジュールで、どの作品も辛かったです。僕は終わりまでわかっている作品は作ったことがないんです。この映画はどう終わるのかという見通しがないままに作っていたので、辛かった、辛かったとしかいいようがない。最後まで見通せる作品は僕が作らなくてもいいだろうと考えて脚本やコンテを書いたりしました。新聞連載や月刊誌のように絵コンテを描いて、スタッフたちは映画がどこにたどり着くか分からないままにやっているので、そういうことが自分にとってはしんどかった。ただ、その1年半から2年のあいだに考えられるということは自分には良かった。上がってくるカットをああじゃないこうじゃないと弄っているうちに映画への理解が深まり、先を考えられることもあって、……生産性には寄与しないやり方でしたが。

監督になってよかったと思ったことは一度もありませんが、アニメーターになって良かったと思ったことは何度かあります。上手く水が描けた、風の処理ができた、と、そういうことで2~3日、短くても2時間ぐらいは幸せになれます。監督は判決を待たなければいけないから、胃に悪いんです。アニメーターという職業は自分に合っている、いい職業だったと思っています。

朝日新聞:
それでも監督を続けてきたのはなぜですか?

宮崎:
僕と高畑勲とは会社が組ませたのではなく、労働組合の事務所で出会って長く話をしました。その結果、一緒に仕事をするまでどれぐらい話をしたか分からないぐらいに話をして、最初に組んでやったのは、自分がそれなりの力を持ってできたのは「アルプスの少女ハイジ」だったと思います。そのときには、まったく打ち合わせが必要ない人間になっていました。監督はスケジュールが遅れると怒られるので、高畑は始末書を何枚も書いていましたが、僕は監督はイヤだなと、音楽やなんやも修業しない人間でしたから。あるとき「一人で演出しろ」と言われたとき、何を打ち合わせていいかわからなくて、先のストーリーはどうなるのかと聞かれても、見通しはない。そんな状態だったので、途中パクさん(高畑監督)に助けてもらったこともありますが、その戸惑いは風立ちぬまで引っ張ることになりました。音楽の打ち合わせて「これどうですか?」と聞かれても「どこかで聞いたかな」ぐらいにしか思わないし、僕がCDを出して「これはどうですか」と言ったら「それ、ワーグナーじゃないですか」とか。映画演出をやろうと思ってやってきたパクさんと、アニメを描きたい僕の修業とは違ったんです。そういったトンチンカンなところがいろいろあったと思いますが、プロデューサーがよく補佐してくれました。僕はどんなタレントがいるのかも知らないし、すぐに忘れてしまうんですが、チームがあったおかげでなんとかやってこられたんだと思います。決然と立ち孤高を保っている監督ではなく、わかんないところはわかんないと、そういう人間としてやってこられたかなと。

朝日新聞:
高畑さんの名前が出ましたが、新作の「かぐや姫」はご覧になることに……

宮崎:
まだ見てません。先ほども言ったとおり、高畑監督に来ないかと言ったらにらまれました。

週刊新潮:
長編最後の作品である「風立ちぬ」で、最後の場面のセリフを「あなた、きて」から「あなた、生きて」に変えたと鈴木プロデューサーがお話していました。変えたことで悔いはありませんか、変えたことについてどう思っていますか。

宮崎:
最後については煩悶しました。なぜかというと、絵コンテを上げないと制作デスクのサンキチが、女の子ですが、おそろしいんです。スタッフのデスクのところへ行って話していると「10分にして下さい」と足元に貼ってあったり、机のあちこちに書いてあったり……。ペンディングしているものがいろいろある中で、絵は描かれてしまっても、セリフは変えられますから、ああいう形で仕上げました。草原はどこなのか、きっとこれは煉獄だと仮説を立てたんです。ということはカプローニも二郎も死んでから再会している。であれば菜穂子はベアトリーチェだ、だから「迷わないでこちらに来なさい」と出てきたんだと言い出したら、自分でもこんがらがりだしたので、やめました。やめたことですっきりしたんだと思います。「神曲」なんて読むからいけないんだ(笑)

毎日新聞:
長編アニメの世界で作りたいもの、世界観を表現できたという思いがありますか。悔いはありませんか。

宮崎:
その総括はしていません。「手抜きした」という感覚があったら辛いだろうけれど、たどり着けるところまではたどり着いたと思っているので、終わったらその映画は観ませんでした。ダメなところはわかってるし、見直したらいつの間にか直っているということもないので、振り向かないようにやってきました。同じことはしないようにと、していたともいわれますが(笑)、そういうことです。

日経:
スタジオジブリを立ち上げた時点では40代だったと記憶しています。その間、日本社会はどういう風に変わってきたと感じているでしょうか。70代が終わってしまうと引退の辞にありますが、どんな70代にしたいですか。

宮崎:
ジブリを作ったときの日本を思い出すと、浮かれ騒いでいる時代だったと思います。経済大国、日本はすごいんだと。そういう時代です。それについて僕はかなり頭にきていました、でないとナウシカなんて作りません。でも、ナウシカ、それからラピュタ、トトロ、魔女の宅急便と、経済は勝手ににぎやかだけど心の方はどうなんだと、そういうことをめぐって作ってきました。89年にソ連が崩壊して、その後日本のバブルも弾けて、僕は戦争が起きないと思っていたユーゴスラビアが内戦になって、歴史が動き始めました。今までの自分たちが作ってきた作品の延長線上には作れないという時代が来たんです。だから、体を変えるように、豚を主人公にしたり、高畑監督は狸を主人公にしたりしました。下降期が来て失われた10年、20年があって、半藤さんは40年と言ってますが、僕らのスタジオは上っていた部分にひっかかっていて、そこがスタジオジブリのイメージを作ったんです。あとはジタバタしながら「もののけ姫」を作って、「風立ちぬ」まで作ってきて……そうやってきたと思います。ただ、下にズルズルと続いていくと、その引っかかっていた部分が保てなくなって、あるときにドロリと転げ落ちてしまうのではないかと。半藤さんと話したとき、この転げ落ちるときに、自分の友人だけではなく隣の保育園の子どもたちがいるなかで、なるべく背筋を伸ばしてきちんと生きなければいけないと思っています。

中国中央テレビ:
中国のジブリファンの代わりに聞きたい。将来、中国で上映する可能性はあるんでしょうか。

鈴木:
これは星野さんから。

スタジオジブリ 星野社長:
ご存じの通り、中国には外国映画の本数規制があり、じわじわと規制緩和はされていますが、まだまだ本格的に日本映画が上映できる流れではありません。前向きに考えてはいるが、現時点ではジブリ作品が上映される状況ではありません。

中国中央テレビ:
監督は色々な人に尊敬されているが、好きな作品や監督はいらっしゃいますか。

宮崎:
今の作品を全然見ていないので……ノルシュテインやピクサーのジョン・ラセター、イギリスのアードマンにいるのも友人です。ややこしいところで苦闘しているという意味で、競争相手ではなく友人。今の映画は全く観ていないので……すみません。高畑監督の映画は観ることになると思いますが、まだ覗くのは失礼だから見ないようにしています。

日本テレビ:
弟子ともいえる存在の庵野秀明さんや、スティーブン・アルパートさんらが出ていますが、何か思いはありましたか。

宮崎:
「渦中にいる人は気付かない」、毎日テレビや日本の映画を見ている人、吹替を見ている人は気付かないと思いますが、僕は東京と埼玉を往復して暮らしていて、さっきも言いましたように映画もテレビも見ていません。すると自分の記憶の中から甦ってくるのは、モノクロ時代の日本映画です。昭和30年以前の作品で、暗い電気の下で生きるのに大変な思いをしている若者や男女が出てくるようなものばかり見ていたので、それが甦るんです。それと今のタレントさんたちのしゃべりを聞き比べると、そのギャップに愕然とします。なんという存在感のなさだろうと思います。庵野もスティーブン・アルパートさんも、存在感だけです(笑)。かなり乱暴だったと思いますけど、その方が僕にとっては映画にピッタリすると思いました。でも他の人がダメだったとは思わないです。菜穂子をやってくださった人なんか、みるみる間に菜穂子になってしまって愕然としました。「風立ちぬ」はドルビーサウンドだけれどドルビーではないものにしてしまう、周りから音を出さない、ガヤも音響監督は「2人で済んだ」といっていました。昔はしゃべっているところにしかマイクを向けられないから、周りで喋っているようなことはほとんど拾えなかったんです。それが自然なんです。24chだとあっちこっちに声を入れろとなって、情報量は増えたけれど表現のポイントはぼんやりしたものになっている。だから思いきって美術館の短編でいろいろ試みてみたら、これでいけるんじゃないかと。プロデューサーもためらわずに「それでいこう」といってくれてよかった。音響監督とも同じ問題意識を持てました。嬉しいことでしたが、いろんなポジションの責任者たち、色や背景、動画チェック、制作デスク、音楽の久石さん、円満な気持ちで終われたんです。今まではもっととんがって、ギスギスしながら終わったものなんですが……。なんというか、僕のお通夜に集まったようなスタッフだなと、30年ぶりぐらいのスタッフも参加してくれてやりました。映画を作る体験としてはいい形で終われたので、運が良かったなと思っています

香港 ケーブルテレビ:
ポニョ公開前に個別インタビューをしたのですが、そのときと比べて痩せている気がします。失礼かもしれないが、いまの健康状態はいかがですか?仕事が大変すぎてやせているのでしょうか。

宮崎:
今の体重は63.2kgです。実は僕は50年前、アニメーターになった時は57kgでした。それが60kgを超えたのは結婚して三度三度飯を食うようになったせいです。70kgを超えたこともありますが、そのころの写真を見ると醜い豚のようで辛いです。映画を撮るために体調を整える必要があるから、外食はやめました。朝はきっちり食べて、昼は家内の作った弁当、夜はごはんを食べないでおかずだけ。これでもきつくないんです。だから、女房の協力か陰謀か知らないが、これでいいと思います。最後は57kgになって死ねるといいなって思っています、スタートの体重ですね。健康は色々問題があります、ありますけれど、心配して下さる方々がいて、よってたかって色々やらされますので、それに従ってやっていこうと思っているので、なんとかなるんじゃないかと思っています。

香港 ケーブルテレビ:
今は健康ということですね?

宮崎:
映画を1本作るとよれよれになります。この夏はものすごく暑くて、上高地でも暑かったです。僕は呪われていると思いました。これはまだ歩き方が足りないです、もうちょっと歩けば元気になると思います。

週刊金曜日:
先ほど「町工場のオヤジ」と自称しましたが、そのオヤジがあえてこの夏、小冊子「熱風」を通じて「憲法を変えるな」という文章を発表した理由はなんでしょうか。また星野社長に、宮崎監督は「日本のディズニー」と称されることもありますが、ディズニー出身の社長としてそのように表現されることをどう感じますか。

宮崎:
熱風の取材を受けて、率直に思っていることを喋りました。事前に準備などもしていなかったので喋ったことそのままで、ああいう記事になりました。訂正する気もありません。発信し続けるのかといわれても、僕は文化人じゃないので、その範囲に留めていおうと思います。

星野:
「日本のディズニー」は監督が自称なさっているわけではありません。この件については2008年に監督自身、公の場で海外特派員から質問を受けていて、「ディズニーはプロデューサーであった、自分にはプロデューサーがいる。ディズニーは優秀なクリエイター、ナイン・オールドメンに恵まれていた。自分はディズニーではない」と明確に仰っています。私はディズニーに20年在籍して歴史もしっかりと勉強したので、宮崎監督とは全然違うなと思っています。

週刊金曜日:
(マイクなしのため不明、なぜ取材に応じたかという質問だと思われる)

宮崎:
あれは確か中日新聞だったと思うけれど、鈴木プロデューサーが憲法について語ったら、ネットで脅迫が届くようになったんですよ。きっと冗談でしょうけど、「これは電車に乗るとブスッとやられるかもしれないよ」という話になって、鈴木さんが刺されて知らん顔はできないなと、3人いれば的が定まらないだろうということで高畑監督にも声をかけて発言しました。脅迫した人は捕まったらしいですけれども、詳細は分かりません。

フジテレビ:
作中に「力を尽くして生きろ、持ち時間は10年だ」とありますが、監督が思い当たる10年はありますか、またその理由はなんでしょうか。そして引退の辞の中に「この先10年」と監督は書いていますが、これからの10年がどういう10年になって欲しいと願っていますか。

宮崎:
堀田善衛さんという作家が最晩年、旧約聖書の伝道の書から「空の空なればこそ」というエッセイを書いて下さった。この中に「汝の手に堪ることは力をつくしてこれを爲せ」という言葉があります。この本はずっと手元にあります。10年というのは僕が考えたことではなく、絵の先生から「絵を描く仕事をすると38歳ぐらいで限界がまず来る。そこで死ぬやつがいるから気をつけろ」といわれました。アニメーションは世界の秘密をのぞき見ることで、風や人の動きやまなざし、体の筋肉の動きそのものの中に世界の秘密があると思える仕事なんです。それがわかったのは監督になる前で、自分の選んだ仕事はやるに値するものだと思った時期があります。演出をやるとかやらないとかも出てきてややこしくなるんですが、何となくこの10年に思い当たります、一生懸命やっていたなと。

これからの10年というのはあっという間に終わるだろうと思っています。だって、美術館を作ってから10年経っているんですよ、この間作ったと思っていたのに。そういうもんだろうと。それが、私の考えです。

フジテレビ:
引退を決めたことを奥さんにはどう伝えて、どういう答えがありましたか。また、子どもたちに「この世は生きるに値する」と伝えるのが根底にあるとのことでしたが、この数十年の制作の中でこの世の定義も変容したのではないかと思います。2013年の世の中をどう見てらっしゃいますか。


宮崎:
家内には、「引退の話をした」と言いました。そして「お弁当は今後ともよろしくお願いします」と。「ふん」と言われましたけど(笑) 常日頃から、この年になって弁当を作っている人はいないと言われていて、よろしくお願いしますと……そこまで丁寧に言ったかどうかは定かではありませんが(笑)、外食が向かない人間に改造されてしまって、しょっちゅう行っていたラーメン屋に久々に行ってみたらしょっぱくて、薄味なものばかり食べているなと、まぁ、そんな話はどうでもいいですが。

僕が好きなイギリスの作家にロバート・ウェストールがいて、作品の中に自分の考えなければいけないことが充満しています。この世はひどいものである、その中で「君はこの世で生きて行くには気立てが良すぎる」というセリフがあります。これは少しも褒め言葉ではないんです。それでは生きていけないぞという言葉なんです。それに胸を打たれました。僕が発信しているのではなく、いっぱい受け取っているのだと思います。書物というほどではなくても読み物や映画から。だから、僕が考案したものではなく、「この世は生きるに値する」ということは繰り返し繰り返しいわれてきたもので、僕も受け継いでいるのでしょう。

読売新聞:
鈴木プロデューサーに。引退発表の場所とタイミング、映画祭の会期中だったが判断の理由は?

鈴木:
ベネチアでコンペがあって出品要請があったのは直前のことだったんです。引退を社内で発表して、9月6日に公式発表するというスケジュールは決めていたけれど、偶然ベネチアのことが入ってきた。僕と星野で相談して、宮さんには外国の友人が多いから、ベネチアで発表すれば……言葉を選ばなければいけないけれど、一度に発表できるなと思ったんです。それに、まず引退を発表して、その上で会見する方が混乱も少ないだろうと。ベネチアにはちょうどジブリからも人が行かなければいけないし、そこで発表すれば手続きを減らせそうだと、ただそれだけのことでした。


宮崎:
ベネチア国際映画祭に正式に参加すると聞かされたのは今日が初めてです(笑) それこそ星野さんが「ええ!?」って言うとかそういう感じでして、これはプロデューサーの言うとおりにするしかありませんでした。

北日本放送:
文学作家の名前の中に富山の堀田善衛が出てきて、学生時代から読んでおられると聞いています。風立ちぬに、堀田善衛から引き継いだメッセージのようなものがあれば、どういった思いを込めて作られたのか教えて下さい。

宮崎:
「メッセージを込めよう」と思っては作れないんです。こっちでなければいけないというのには何らかの理由があるんだろうけれど、それがわかっているようではいけない。それに、作品としては最後に風呂敷を閉じなければいけなくて、閉じなくていいならこんなに楽なことはないんですが、いくら長くても2時間が限度で、残り秒数は刻々と減っていく。それが実態でして、セリフとして「生きねば」があったのは、鈴木さんがナウシカの最後のセリフを持ってきてポスターにいれ、僕が書いた「風立ちぬ」の文字よりも大きく載せて、これは番を張ってるなぁと(笑) ベネチアの前に、高畑監督と一緒になんか出ないかとか言われて、勘弁してくれと断ったりしたのに、ベネチアのことは黙っていて。

鈴木:
監督はベネチアについてコメント出してますよ、リド島が好きだって(笑)

宮崎:
好きですよ、リド島(笑) あと、カプローニに子孫がいて、その人が偶然「紅の豚」を見たらしく、カプローニの社史、飛行機の図面とかが載ったこんなでっかい本をイタリアから送ってきて「いるならやるぞ」と。もちろん日本語じゃなかったけれど、ありがたくいただきますと返事しました。それで、今までは写真で見ただけだったヘンな飛行機の構造を見ることができた。それで胸を打たれた。技術水準はドイツやアメリカにはるかに劣るが、ローマ人が考えていたようなことをやろうとしていたんだ、ジャン・カプローニは、と。ルネッサンス時代の人だと考えると納得です。基盤のない場所で航空会社をやっていくにはハッタリをかますしかなかった。それですごく好きになった。それも今度の映画の引き金になっていますが、こうやって溜まりに溜まったものでできているので、自分のテーマで作ろうと思ったことはありません。僕のところに送られてきた1冊の本、それもだいぶ前ですよね、こうやって前に蒔かれたものが材料になるということだと思います


北日本放送:
堀田善衛がいろんな作品の中で根底におかれているのかなと富山県の人間としては思っているのですが、宮崎さんにとって堀田善衛はどんな作家ですか?

宮崎:
経済が登り坂になって、今度はどん詰まりになってとか、わかってるようにいってますけど実際はわかんないんです。豚をやる前に世界情勢をどう読むのか分からなくなって、そういうときに堀田さんがさらっと書いたエッセイとかが届くんですよ。自分がどこかに向かっているつもりなのにどこへ向かっているかわからなくなったとき、堀田さんはぶれずに現代の歴史の中に立っていました、これは見事なものでした。それで自分の位置が分かるということが、何度もありました。「国家はやがてなくなるから」とか、そういうのがどれだけ助けになったかと。

東洋経済:
初期作品は2年3年間隔だったが、今回は5年。これは年齢によるもの以外に、創作の試行錯誤や作品への思いなど、時間のかかる要因があったのでしょうか。

宮崎:
1年間隔で作ったこともあるよね。ナウシカはちょっと違うけれど、ナウシカもラピュタもトトロも魔女も、演出をやる前に手に入れていた材料が溜まっていて、出口があれば出ていく状態だった。そのあとは探さなければならない時代になったから、だんだん時間がかかるようになったんだと思います。カリオストロは4ヶ月半で作りました、それは一生懸命やって寝る時間を抑えてでもやったから、スタッフ全体も若くて長編アニメをやる機会は生涯に1回あるかないかだからという献身もあったからできたんです。でも、年は取るし所帯も持つし、「私を取るの、アニメを取るの」なんてことにもなってくる。堀越二郎を書きましたが、これは面当てではありません(笑) 1日12時間机に向かっていても耐えられた状態ではなくなり、もう7時間が限度だったと思う。あとは休むかおしゃべりしているか。打ち合わせだとかああしろこうしろと指示を出しているのは、僕にとっては仕事ではなくどうでもいいことです。机に向かって描く時間を何時間取れるかですが、それがこの年だと難しい。鉛筆を置いたらぱっと帰っちゃうようになりました。「この仕事は今日中に」とか無理するのをやめて、やりっぱなしで帰ってしまう。それでも限界ギリギリでしたから。そんなことは他の人にやらせればいいじゃないかというのは、僕の仕事のやり方を知らない人の言葉です、それができればもうやっている。スタッフを集めて方針を書くということもやっていて、5年かかりました。だから風立ちぬの後どう生きるかは、まさにいまの日本の問題です。先日、青年が訪ねてきて、最後にカプローニと二郎が丘を下っていく先に何があるかを考えると恐ろしいと言っていました。それはこんにちの映画として捉えてくれたのだということでびっくりしましたが、そういうことです。

宮崎監督は多くの人が集まったことに感謝を述べた上で「二度とこんなことはないと思いますので、ありがとうございました」と会見を締めくくって、最後まで報道陣を笑わせていました。

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