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毒殺かオーバードースか?16世紀の天文学者ティコ・ブラーエの死の謎を解くため墓が開かれる


16世紀のデンマーク人の天文学者ティコ・ブラーエ(1546-1601)が残した天体観測記録は、弟子のヨハネス・ケプラー(1571-1630)がケプラーの法則を解明する基礎となったのですが、その死には長年疑惑が持たれてきました。

盗まれることを恐れ用心深く秘蔵していたという膨大な観測記録をまとめる前に急死したこと、死後の混乱に乗じてケプラーがその観測記録をすかさず「相続」したこと、1901年に墓を開いて行われた検視で遺体から水銀が検出されたことなどから、ケプラーによる毒殺の可能性も取りざたされてきた経緯があるのですが、先日再び、デンマーク・チェコ・スウェーデンの科学者たちのチームにより、死因を究明するため遺体が掘り返されたそうです。

詳細は以下から。Astronomer Tycho Brahe’s Remains Exhumed Again For Autopsy | AHN

1546年にデンマークの有力貴族の家に生まれ、一時はデンマークの財産の1%を所有していたとも言われるティコ・ブラーエ。1599年からは神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の皇室付帝国数学官としてプラハに在住していました。ケプラーを助手として招いたのもこのプラハ時代で、ケプラーの洞察力と理論的概念に感心したブラーエは、ほとんど人に見せることのなかったという天体観測記録を、複製することは許さなかったもののケプラーにだけは比較的自由に閲覧させていたそうです。

プラハにあるブラーエとケプラーの銅像。


最期の地となったのもプラハで、ブラーエの墓はいまもプラハ旧市街のChurch of Our Lady before Týnにあります。


生涯で1000個以上もの星を観測し記録したというティコ・ブラーエは、1601年、満54歳で亡くなりました。ケプラーの談によると、10月3日に皇帝の晩餐会に主席していたブラーエは、尿意を感じたものの非礼にあたるためトイレへ立つことを拒み、帰宅したころには非常な痛みをともないわずかな量しか排尿することができなくなっていたとのこと。それから11日後の10月14日に膀胱が破裂して亡くなったと言われていて、当時の医師は死因を尿路結石と見ていたのですが、1901年に墓を開いて行われた検視で遺体から結石は発見されなかったため、近年ではその死因は尿毒症という説が主流となっていました。

しかし、公式な記録が残されていないその1901年の検視で、遺体のひげや髪の毛から高濃度の水銀が検出されていたため、ケプラーにより毒殺されたという説や、デンマーク王クリスチャン4世の指示で暗殺された(クリスチャン4世の母ゾフィー・フォン・メクレンブルクはブラーエと密通していたとも言われています)という説も根強く存在します。

そこで、オーフス大学で中世を専門とする考古学者Jens Vellev教授が率いるデンマーク・チェコ・スウェーデンの科学者の共同チームが再びブラーエの死因を検証することとなりました。チームは2010年11月15日(月)にブラーエの墓を開き、1901年の検視後に子どものひつぎほどの大きさの缶に入れられていた遺体を回収し、今後CTスキャン粒子誘起X線分析、中性子照射による放射化分析などを行い水銀量を測定し、水銀を含有する鎮痛剤のオーバードースにより死亡したのか、あるいは毒殺されたのかを検証する予定とのこと。調査結果は来年明らかになるそうです。

ティコ・ブラーエの墓。1901年の検視後に再び埋葬された際に作られた、新しい墓石です。

by Robert Scarth

死の直前、せん妄状態になったブラーエは「無駄な人生だったと思われたくない」と繰り返し口走り、ケプラーに「ルドルフ表」(ルドルフ2世の勅命で作成された天文表)の完成を促し、コペルニクスの体系ではなくブラーエ自身の体系に基づくものとして欲しいと願ったと言います。

ブラーエの死後、ケプラーは後任として皇室付帝国数学官の位に就き、ブラーエの火星観測記録を基に解明したにケプラーの第1法則(楕円軌道の法則)と第2法則(面積速度一定の法則)を1609年「新天文学」で発表、1619年に第3法則(惑星の公転周期の2乗は軌道の長半径の3乗に比例)を「世界の調和」で発表し、1623年に「ルドルフ表」を完成させました。

「ルドルフ表」に収められた世界地図。「ルドルフ表」はプトレマイオスの体系に基づく「アルフォンソ天文表」やコペルニクスの体系に基づくエラスムス・ラインホルトの「プロイセン表」に替わり、広く使われるようになります。


1623年に完成した「ルドルフ表」ですが、相続人としての権利を主張したブラーエの親族らとのトラブルや、三十年戦争の混乱などにより、出版は1627年を待たねばなりませんでした。なお、ルドルフ2世は1612年に死亡しているので、出版時の皇帝フェルディナント2世に献呈されていますが、星表の名前は「ルドルフ表」のままです。


「ルドルフ表」の表紙にはヒッパルコスコペルニクスプトレマイオスとともに、ティコ・ブラーエ(中央右)が描かれています。その下の台座中央の地図に描かれているのは、ブラーエの天文台があったヴェン島です。


「歴史に名を残したい」というのが最後の願いだったというブラーエですが、その名は天文学史にしっかりと刻まれているほか、月のクレーター「ティコ」や火星のクレーター「ティコ・ブラーエ」の名前にもなっています。

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in メモ, Posted by darkhorse_log

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