アート

社会を揺るがした2人の芸術家、クリムトとシーレの運命はどのように絡みあっていったのか?


鮮やかな色彩で女性を描くグスタフ・クリムトは甘美で妖艶な作風で知られていますが、作品には保守的な芸術界に対する反骨精神が根付いており、評されるもので、時には作品をめぐってショットガンを取り出すことも。そんなクリムトは30歳も年の離れた画家であるエゴン・シーレと深い絆がありました。自身のヌードスケッチを作品にしていたシーレとクリムトの人生がどのように絡み合っていたのか、BBCが記しています。

BBC - Culture - Klimt and Schiele: The artists who shocked Europe
http://www.bbc.com/culture/story/20180221-klimt-and-schiele-the-artists-who-shocked-europe

19世紀末のウィーンで展示会場を持っていたのはクンストラーハウスという芸術家団体でした。しかし、クンストラーハウスは保守的であり、ウィーンの芸術家らはクンストラーハウスに所属することを義務のように感じていたとのこと。それに対して不満を持ったクリムトらはウィーン分離派を結成しました。

by Anton Josef Trčka

Nuda Veritas(裸の真実)」など、クリムトの生み出した作品は「挑発的」と評され、クンストラーハウスと真っ向から対立するスタイルでした。裸の真実は、裸の女性が真実の鏡を片手に持って立ち、足元には「虚偽のヘビ」が死んでいます。そして女性の頭の上にはドイツ語で「あなたの行為や芸術が全ての人を喜ばせることができないならば、ほんの少数の人を喜ばせてください。多くの人を喜ばせることは悪しきことです」と記されています。


装飾家として名声を受けていたクリムトは1894年にウイーン大学の大ホールの天井画として「哲学」「法学」「医学」の3点を依頼されました。大学は当初、科学や啓蒙運動の勝利を歌った絵画の作成を依頼しており、クリムトの新たな方向性について気づいていませんでした。完成した絵画は大学の意図に反し理性の優越性を否定するもので、「哲学」の絵画には女性の裸体が描かれていたため、87人の大学メンバーは絵画を一般公開することに反対。発注をキャンセルするよう文部省に依頼しました。

そして、裸の女性がもだえ苦しむ「医学」の全貌が明らかになったとき、さらなる騒動に発展。この絵画では女性の外陰部が下からの角度で明確に描かれており、クリムトはポルノグラフィーの罪で告訴され、帝国議会で議論が行われる事態となりました。帝国議会で文化的な事柄が議論されたのは、この時が初めてだったそうです。

その後「法学」が公開された時、議会はクリムト側に立ちましたが、最終的に絵画はホールの壁ではなくギャラリーに半永久的に飾られることが決まりました。クリムトは前金を返す代わりに絵画を手元に置いておくことを主張しましたが、文部省は、絵画が既に州のものであるとしてこの要求を拒否。しかしクリムトが絵画の撤去をしているスタッフをショットガンで脅したことを切っ掛けに、絵画を取り戻すことができたそうです。しかし、最終的に3枚の絵画はナチスに没収され焼失、白黒の写真と「医学」の習作だけが残されました。


さらに1902年に発表された「金魚」という作品において、自分の絵画を批評する人に対する見方を明らかにしています。裸の女性がお尻を向けたこの絵画を、クリムトは「私の批評家たちへ」というタイトルで呼んでいたそうです。


クリムトの作品では、美しい金色の色彩が使われたものが多く残されていますが、その下には「汚れた現実」が描かれています。この「汚れた現実」というのは、女性が男性の欲望を提供させられていることを指しているとのこと。クリムト黄金期の作品「接吻」においても同じことが言え、「接吻」は一見美しい絵画ではありますが、「よく見ると男性の首は醜くねじ曲がっており、これは直立したペニスを描いています。表面上は非常に繊細で愛らしい絵画なのですが、男性は性欲を擬人化したものなのです」とLeopold Museumの学芸員であるDiethard Leopold氏は語りました。


クリムトの妥協しない姿勢は若い画家であるエゴン・シーレに大きな影響を与えました。シーレは幼い頃から絵画の才能を開花させていましたが、妹のヌードスケッチをするなどして両親に不安を抱かせていました。心理療法士でもあるLeopold氏は、シーレが幼い少女に魅了されたのは、母親との関係に起因するものだと見ています。


当時、ウィーン美術アカデミーで学生として学んでいたシーレは学校に対する失望を募らせていました。クリムトは1862年生まれ、エゴンシーレは1890年生まれなので、30歳近く年が離れていますが、クリムトはそんなシーレの才能にひかれ、モデルを提供したり、展示会に絵画を飾るなどして才能を支援しました。しかし、1909年の展示会で飾られた4枚の絵画は、見る人に大きなインパクトを与えることができなかったといいます。またクリムトはウィーン工房のメンバーにシーレを紹介し、シーレは彼らに対して水彩画のポストカードを渡しましたが、「デコラティブ・アートの優美さがない」として受け取りを拒否されています。

新しい表現方法を模索したシーレは、その後、自分自身の体をインスピレーションの元としました。1907年にはクリムトの「医学」をベースにして、初めて自分のヌードを肖像画として描きます。シーレが試みた「自分自身のヌード画」は前例がないものでした。シーレは肖像画において自身を「よるべがなく、壊れそうで、他の人から取り残された孤独な存在」として描きました。


シーレは実験的なスタイルを進めていきましたが、当時のウィーンではなかなか受け入れられませんでした。そこでシーレは、もともとクリムトのモデルであったウォーリーと共にチェコのクルムロフ市で同居を始めました。すると、シーレに魅力を感じた女性たちが家を訪れるようになり、シーレは彼女たちをモデルに絵を描き始めました。すぐにゴシップが広がり、裸の少女たちをモデルに庭で絵を描いていたことなどから、シーレは町を追い出されることになります。

次に暮らしたオーストリアのノイレングバハでは、家出した少女をシーレとウォーリーがかくまったことが父親の逆鱗に触れ、シーレは誘拐の罪で逮捕されます。警察がシーレの自宅を捜査した際にヌードの水彩画ほか125作品が押収され、最終的に誘拐については無罪になったものの、水彩画が「乱行を誘因する」として3日間の禁錮刑を言い渡されました。


この一件が転機となり、以来、シーレが少女のヌードを描くことはありませんでした。クリムトは自分のクライアントたちに肖像画画家だとしてシーレを紹介し、シーレはより社会に受け入れられる存在である中産階級職人の娘、エーディトと結婚します。

第一次世界大戦も終わりに近づいた1918年、クリムトは第49回のウィーン分離派展を開催し、シーレの作品50点を展示します。それまで知名度の高くなかったシーレの作品は大きな注文を集め、絵画の価値は上昇。この時期に、自分のヌード肖像画を描いていたシーレは「Friends」という、シーレがクリムト、そして他の芸術家たちが1つのテーブルに座っている作品を描いており、心境の変化が伺えます。


しかし、1918年2月にクリムトが死去したことを受け、シーレは展示会のポスター用に「Friends」をクリムトの席が空席になるような形で変更を加えています。そして、ウィーンのアート界でようやく立ち位置を確立しだしたシーレですが、クリムトの死後8カ月後である10月28日には、妻エーディトがスペイン風邪にかかりシーレの子どもを宿したまま死去。後を追うようにシーレも10月31日に生涯を終えました。

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in アート, Posted by darkhorse_log

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