ハイジャック犯が身代金を持ってパラシュートで消えた完全犯罪「D.B.クーパー事件」から45年、FBIがついに自発的捜査を終了


1971年に発生した未解決事件「D.B.クーパー事件」について、FBIが実質的な捜査打ち切りを発表しました。事件は45年目で、ほぼ迷宮入り状態でした。

FBI — Update on Investigation of 1971 Hijacking by D.B. Cooper
https://www.fbi.gov/seattle/press-releases/2016/update-on-investigation-of-1971-hijacking-by-d.b.-cooper


D.B. Cooper case no longer actively investigated by FBI | KIRO-TV
http://www.kiro7.com/news/local/db-cooper-case-no-longer-actively-investigated-by-fbi/397251270


FBI shuts down D.B. Cooper air piracy case after 45 years - YouTube


ハイジャック発生
事件が発生したのは1971年11月24日のこと。この日、ポートランド国際空港から「ダン・クーパー」を名乗る男性が黒いアタッシェケースを持って、ボーイング727-100で運航されるノースウエスト・オリエント航空305便シアトル行きに搭乗しました。

14時30分ごろ、行程の3分の1を過ぎたあたりで、クーパーは客室乗務員のフローレンス・シャフナーさんにメモを渡しました。シャフナーさんが電話番号を渡されたものと考えて、折られたメモをそのまま自分のカバンに入れたため、クーパーは「お嬢さん、中を読んだ方がいいですよ。私は爆弾を持っている」と告げました。真偽を確かめようとシャフナーさんが爆弾を見せるように言うと、クーパーはアタッシェケースの中に8本の赤い爆弾のようなものとケーブル類、それと繋がった円筒形のバッテリーが入っているのを見せました。クーパーの要求は身代金20万ドル(当時のレート・1ドル=314円で換算すると約6280万円)とパラシュート4つ(うち2つは予備)、そしてシアトル到着時に飛行機に給油する準備を整えておくことでした。

シャフナーさんがこの要求をウィリアム・スコット機長に伝え、機長からシアトル・タコマ空港の航空交通管制へ、さらに地方当局・連邦当局へと情報が伝わりました。ノースウエスト・オリエント航空のドナルド・ニューロフ社長はクーパーの要求通り身代金の支払いを受け入れ、身代金とパラシュートの用意をする間、305便をピュージェット湾上空で待機させました。


このとき、シャフナーさんはクーパーが「タコマが眼下に見える」「マコード空軍基地はシアトル・タコマ空港から車で20分ぐらいだ」と発言しているのを聞いています。クーパーの人物としての印象は穏やかで礼儀正しく、言葉遣いが丁寧であり、当時考えられていたハイジャック犯のステレオタイプとはかけ離れていたと感じたそうです。同じく客室乗務員として305便に搭乗していたティナ・マックロウさんも「冷酷や意地悪な人物ではなく、終始思慮深く、冷静でした」と語っています。この人物像の通り、クーパーはシアトルでの駐機中に、クルーのために食事をもらおうかと申し出たそうです。

シアトルで乗客解放、再離陸
305便は17時39分にシアトル・タコマ空港に到着。クーパーは乗客全員とシャフナーさん、客室乗務員のアリス・ハンコックさんを飛行機から降ろしました。ここでクーパーはクルーに対して、失速しない程度の速度である100ノット(時速190km程度)で、高度3000mを保ちメキシコシティ方向へ南東に飛ぶというプランを明かしました。このとき、飛行中もランディングギアを出したままにすること、フラップは15度に下げること、客室は与圧しないこと、後部ドアは開けておきエアステア(乗降用の階段)も出したままにするという条件をつけました。

by R.W.Rynerson

しかし、この機体の航続距離はおよそ1600kmで、メキシコシティ方向へ向かっても、メキシコに入る前に一度給油の必要があったため、クーパーはクルーと相談の上で、ネバダ州のリノで一度着陸することを認めました。後部エアステアを出しっ放しで離陸することについてはノースウエスト・オリエント航空の本社側から危険だと反対意見が出て、クーパーは「まったくもって安全だ」と反論しましたが、最終的にはこれを受け入れました。

19時40分、305便はクーパー、スコット機長、副操縦士のウィリアム・ラタクザクさん、航空機関士のH.E.アンダーソンさん、客室乗務員のマックロウさん、合計5名だけを乗せてシアトル・タコマ空港を再離陸。マコード空軍基地から飛び立った2機のF-106が、クーパーの視界に入らないように305便の上下を挟みました。この離陸後、マックロウさんはクーパーが腰に何かを取り付けているのを目撃しています。

20時ごろ、305便のコックピットで後部エアステアの動作を示すランプが点灯。気圧の変化もあったため、クルーは後部扉が開いたということに気づきました。このとき、クルーは通話装置でエアステアの呼び出しを行っていますが、すぐに切られたとのこと。

このあと20時13分ごろに、機体後部が突然上方へ跳ね上がりました。この動きは、機長が機体を水平へ戻すために操作を必要とするぐらいに大きいものでした。

305便がクーパーとの合意通りにネバダ州リノに到着したのは22時15分。このとき、後部エアステアは出たままで、飛行機を取り囲んだリノ警察はクーパーがいないことをただちに確認しました。

姿をくらませたクーパー
クーパーは20時13分、パラシュートを着用して飛び降りたと考えられています。FBIが91kgのダミーを用いて実験した結果、20時13時に発生した機体の衝撃が、クーパーによるものであると確認されたためです。このときも2機のF-106は305便を追跡していましたが、いずれのパイロットも目視・レーダーで、何者かが飛び降りた姿や、そのあとに展開されたであろうパラシュートは確認していません。しかし、クーパーは白いシャツにダークスーツ、黒いレインコート、ローファー、黒いネクタイという姿だったので、見えなかったのだと考えられています。

ちょうどこの20時13分ごろ、305便はワシントン州南西を流れるルイス川の上空を、嵐の中飛んでいました、飛行経路の位置と高度がわずかに異なるだけでもクーパーの着地ポイントは大きく変わってくるため、どこを探索すべきなのかでFBIは苦しむことになりました。結局、FBIはシアトルからリノにかけての飛行ルート沿いに、オレゴン州兵の固定翼機やヘリコプターなどを動員して探索を行いましたが、わずかなプラスチック片以外に、ハイジャックに関連するものは見つかりませんでした。


捜査の中で、FBIと地元警察はただちに取りかかれる容疑者から取り調べを開始。その容疑者の中の1人が、オレゴン州に住む「D.B.クーパー」という人物でした。この人物はすぐに容疑者リストから外れましたが、UPI通信のクライド・ジャビン記者とAP通信のジョー・フレイザー記者が、搭乗者リストで用いられた「ダン・クーパー」と容疑者リストに入っていた「D.B.クーパー」を混同して報道した結果、「D.B.クーパー」という名前の方が広がり、事件自体も「D.B.クーパー事件(D. B. Cooper hijacking)」と呼ばれるようになりました。

クーパーの足取りとしては、すべての番号が控えられていた身代金の紙幣から追うという方法も取られましたが、なかなかこの紙幣は見つからず、1972年始め、ジョン・ミッチェル司法長官は番号を一般に公表。このため、同じ番号の20ドル札を偽造してハイジャック犯を自称し、週刊誌ニューズウィークの記者を騙す人まで現れました

札束の発見
1978年、305便のエアステアを降下させるための指示を含むメモが、ワシントン州キャッスルロックの東21km、林道でハンターによって発見されました。

そして1980年2月、家族とともにキャンプファイアーをしようとしていたブライアン・イングラムという8歳の少年が、身代金の一部を発見しました。場所はワシントン州バンクーバー(下記画像右下)からコロンビア川(オレゴン州とワシントン州の州境)を14km下ったところ。


見つかった札束は3つで、少年がキャンプファイアーを作る目的で川岸からかき集めたため著しく崩れた状態でしたが、まだ輪ゴムで束ねられたままでした。FBIが調べたところ、2つの束は20ドル札100枚がそのままで、もう1つの束は90枚。並びはクーパーに渡したときと変わっていなかったとのこと。


しかし、この札束も決定打にはなりませんでした。そもそも、札束はクーパーないし誰かがここに置いたのか、あるいは川を流れてきたのかがわからず、さらに1974年に川の浚渫が行われていて、川底からすくい上げられたものだった可能性もあったためです。また、カウリッツ郡の保安官からは、クーパーがまだエアステア上にいたときに誤って落としたものなのではないかという意見も出ました。

なお、この札束のうち14枚はFBIが保存し、残りは1986年にイングラム氏とノースウエスト・オリエント航空の保険業者との間で分配されました。イングラム氏は2008年、所有していた紙幣のうち15枚をオークションにかけ、約400万円で売却しています。

現在に至るまで、未発見の9710枚の紙幣は世界中のどこでも使われた形跡がないままです。

周辺地域では何度かパラシュートなどが見つかったことがありますが、いずれも事件とは無関係のものであることがわかっており、専門家は1980年に発生したセントヘレンズ山の噴火で、残っていた物理的な証拠が消えてしまったのではないかと推測しています。

アメリカ、セントヘレンズ火山の噴火のムービー - GIGAZINE


21世紀の捜査
21世紀に入っても、捜査は細く長く続けられました。

数少ない証拠品の1つであるネクタイピンからは、2001年になって3つの有機体サンプルが得られ、部分的なDNA紋が得られたと発表されました。しかし、この有機体サンプルがクーパーのものであるという証拠がなく、誰のDNAかを突き止めることはできませんでした。

また、クーパーのもとには2つのパラシュートと、2つの予備パラシュートが届けられましたが、優秀「ではない」方のもので、さらに選んだ予備パラシュートは、パラシュートをかき集めたときに偶然混ざったダミー(練習用)のものであったことが明かされました。ダミーであることは、スカイダイビング経験があればわかるもので、問題なく使えた予備パラシュートは金を詰めたバッグに利用したと考えられています。

2009年3月、FBIは古生物学者のトム・ケイ氏らによる「クーパー調査チーム」を結成。チームは1971年当時の捜査では使われていなかった近代的な装備で事件に挑み、クーパーが着用していたというネクタイを電子顕微鏡で調べて、ヒカゲノカズラの胞子やビスマス、アルミニウムの破片を発見しました。

さらに、2011年には純チタンの粒子も見つかりました。事件当時、今と比べてチタンは珍しい存在で、金属製作や生産設備、腐食性の物質を保管する必要のある化学メーカーなどでなければ見られないものでした。このことからケイ氏は、クーパーは化学者・冶金学者・金属メーカーか化学メーカーのエンジニアやマネージャー、ないしはそれらの会社からのスクラップを扱うような人物であると考えました。

しかし、やはり容疑者にまではたどり着かず、今回、FBIはクーパーの事件に当たっていた捜査員をより重要性の高い事件に回すことにして、自発的な捜査活動を終了すると発表しました。

ただし、FBIによると完全に捜査を終了した、捜査をやめたというわけではなく、パラシュートや身代金と関連する物証については探し続けていくとのことです。

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