ハードウェア

鉄のカーテンの向こう側でコンピュータはどのような進化を遂げていたのか?

By Daniel Antal

1945年から1989年まで続いた冷戦の間、ソビエト連邦(ソ連)は東ヨーロッパ諸国の共産主義政権を統制し、東ドイツ・チェコスロバキア・ハンガリー・ユーゴスラビアの西側国境に鉄線で作られた柵を設置して国境間の往来を禁じました。資本主義陣営との国交が絶たれたソ連統制下で現代社会に欠かせないコンピュータは独自の発展を遂げていたようで、その詳細を冷戦直下のチェコスロバキアで生まれ、コンピュータに没頭していたというMartin Malý氏が明らかにしています。

Home Computers Behind The Iron Curtain | Hackaday
http://hackaday.com/2014/12/15/home-computers-behind-the-iron-curtain/

イギリスのチャーチル元首相は、ソ連が資本主義陣営のアメリカや西ヨーロッパ諸国と敵対する姿勢を「鉄のカーテン」と表現し、以後冷戦の緊張状態を表わす単語として使用されています。その鉄のカーテンの東側に位置する冷戦時代のチェコスロバキアはソ連構成共和国に含まれていなかったものの同盟国としてソ連の影響を色濃く受ける社会主義共和国でした。


Malý氏によれば、ソ連は第二次世界大戦後に誕生した学問の「サイバネティックス」を機械で人間を支配するのに使う「ブルジョアの類似科学」と批判しましたが、後に科学と軍隊におけるコンピュータの重要性を理解し、東ヨーロッパ諸国でコンピュータの開発を始めたそうです。

Malý氏が産まれたチェコスロバキアには「Tesla」という名前の企業がありました。Teslaは半導体からレコードプレイヤー、TVまでさまざまな電子機器を製造する、いわばチェコの総合電機機器メーカーという存在。Teslaが販売した中でも興味深いのが「JPR-1」というコンピュータです。


JPR-1は8224・8228チップセットとメモリを搭載したシングルボードコンピュータで、何が興味深いのかというとJPR-1のデザイナーが同機種の設計図とプリント基板を「Amatérské Rádio」という雑誌で公開していたこと。Malý氏によると、共産主義の政府がコンピュータの詳細の公開を許可したのは、当時の政治体制から考えると驚くべきことで、その背景には政府がエンジニアを必要としていたことが読み取れます。

Teslaは計算機・計算機向けLEDディスプレイを搭載した「PMI-80」や、PMI-80をグレードアップさせ32KBのRAM・16KBのVRAM・キーボード搭載の「PMD 85-1」、64KBのRAM・キーボード搭載の「Ondra」というコンピュータを家庭向けに発売しましたが、当時のチェコスロバキアの平均給料6カ月分という恐ろしく高い値段のために一般家庭では流通せず、学校や工場、研究所といった施設が購入していたのが実情でした。

これがPMI-80


PMI-80をグレードアップさせたPMD 85-1


TeslaのOndra


ただし、チェコスロバキアの一般家庭にコンピュータが普及していなかったのか、というとそうではありません。当時一般家庭では西ドイツやオーストラリア、イギリスから非正規のルートや個人輸入で入ってきたシンクレア・リサーチAtariのコンピュータが流通していました。シンクレア・リサーチの「ZX Spectrum」やAtariの「800XL」という機種は値段が平均給料1カ月分で、Teslaのコンピュータの約6分の1。また、シャープの「MZ-800」が市場に出回ることがあり、その他にもコモドールAmigaAtari STといったコンピュータも市場に登場しましたが、正規ルートではなく個人輸入されたものしかなかったそうです。

非正規ルートから流通していた輸入コンピュータは当然マニュアルが付いているわけではないので、家庭向けと言っても購入していたのは現代で言うところのギークな人たち。輸入コンピュータを購入した人は海外のコンピュータ雑誌や本を入手して操作方法を学んでいたようで、Maly氏の友人の中にはAtari 800XLと「6502」というCPUの取扱説明書、逆アセンブラソフトウェアだけを使って試行錯誤しながらコードやコード表を勉強した人もいたそうです。


一方コンピュータで使用するソフトウェアというと、冷戦時代のチェコスロバキアにはソフトウェアを扱うお店は存在しなかったので、ソフトウェアを手に入れるには西ヨーロッパ諸国から密輸するしかなかったのが実情です。しかしながら、ソフトウェアを入手するのが難しかった反面、コンピュータの所有者は最低でもBASICを勉強する必要があり、その結果として数多くのプログラマが育ったとのこと。ただし、プログラミングを勉強して自分でソフトウェアを開発しても販売することは禁止されており、1989年にようやく販売免許取得者のみ自作ソフトウェアの販売が許可されました。

1989年にベルリンの壁が崩壊し冷戦が終結に向かうと共に、鉄のカーテンは消滅。冷戦以降のチェコスロバキアでは一般家庭レベルでハードウェアやソフトウェアの購入が始まり、東ヨーロッパやアメリカに差を開けられたIT産業のギャップを少しずつ埋めていきました。そういった環境で育ったMalý氏は記事執筆現在、プログラミングを趣味としながら、チェコの新聞社でITコンサルタントとして働いており、今後も冷戦時代のITに関する貴重な話を明らかにしてくれるのを期待したいところです。

この記事のタイトルとURLをコピーする

・関連記事
知られざるCPUの過去40年における性能向上と進化の歴史 - GIGAZINE

世界最初のマウスから最新のマウスまで、知っておいて損はないマウスの歴史 - GIGAZINE

Appleの歴代OS・PC・モバイル端末などの栄枯盛衰をポスター1枚に全部突っ込むとこうなる - GIGAZINE

コンピューターの歴史上最悪だったウイルスをイラスト化するとこうなる - GIGAZINE

MITが携わった世界を変えるコンピュータサイエンスの歴史的発明50選 - GIGAZINE

時代に影響を与えた歴史的CPU・11モデルまとめ - GIGAZINE

決して主流になることは無く、歴史の表舞台から姿を消した非常に個性的な記録媒体いろいろ - GIGAZINE

IT発展の歴史をまとめたインフォグラフィック「Evolution of The IT PRO」 - GIGAZINE

中学生全員にノートPCを配布した結果、何が起きたのか? - GIGAZINE

in ハードウェア, Posted by darkhorse_log

You can read the machine translated English article here.