命がけとは知らずに米軍の原水爆実験を記録し、歴史の闇に葬り去られたカメラマンたち


1945年から1962年にかけて米軍が実施した原水爆実験を、極秘裏に映像や写真で記録していたカメラマンたちの部隊がいたそうです。

冷戦中に原水爆の開発に携わった科学者たちの多くが名声を得たのに対し、命がけでそれを記録したカメラマンたちは決して表舞台に出ることはなく、機密を保持したまま多くが亡くなっていったとのこと。半世紀を経て情報が公開されつつある中、その極秘撮影チームの数少ない生存者の一人George Yoshitake氏が当時を語っています。

詳細は以下から。Capturing the Atom Bomb on Film - Audio & Photos - NYTimes.com

Secret Corps of Filmmakers Documented Nuclear Bomb Tests - NYTimes.com

原水爆実験を撮影したカメラマンたちのほか監督やプロデューサーなども含む総勢250人のチームは厳重に身元をチェックされ機密保持を誓った人々から成り、ハリウッドに本部を置いていたそうです。有名なSunset Stripから程近い10万平方フィート(9290平方メートル)のスタジオは、もともとは第二次世界大戦中の1941年に近隣の山頂のレーダーを管理するアメリカ空軍の防衛拠点Lookout Mountain Airforce Stationとして建設されたもので、1947年に設立された映像製作ユニットは「Lookout Mountain Laboratory」と呼ばれていました。「一晩中こうこうと明かりが点いていたので、近所の人々は不審に思っていたようです」と元カメラマンのGeorge Yoshitake氏(82歳)は語っています。

このスタジオで22年間に約6500本もの記録映像が製作され、のちにハリウッド映画にも使われることになる当時最新の機器や撮影技術・投影技術などが試されたとのこと。撮影クルーらは命がけの仕事になるとは知らずに、ヘリポートも設置されたスタジオとネバダ州などの実験場を忙しく行き来する日々を送りました。


Yoshitake氏によると、撮影にあたったカメラマンや立ち会った人々は被爆量がわかるバッジを全員身につけ、実験場からの距離に応じて1日~1週間に1度、そのバッジを提出していたとのこと。「被爆の危険性については知らされ、例えば髪が抜け落ちるかもしれないといったことなどは我々も覚悟していたのですが、まさか死ぬことになるとまでは誰も考えていませんでした」とYoshitake氏は回想します。「友人のカメラマンたちも多くが亡くなりました。わたしはいまだにかなり健康で、この年まで生きることができたので、数少ない幸運な生存者の一人と言えるでしょう」

Michal Czerwonka for The New York Times

画像は2006年に出版された書籍「How To Photograph an Atomic Bomb」から。こちらは1953年に撮影されたもの。


「How To Photograph an Atomic Bomb」の著者Peter Kuran氏はハリウッドで活躍する特殊効果映像の制作者。情報公開が進みつつあった1997年に、原爆実験撮影チームの生存者を集めたイベントを企画・撮影し、原爆カメラマンたちの高いスキルと勇気に非常に感銘を受けたそうです。

Leah Nash for The New York Times

この写真が撮影された数百分の1秒後には、火の玉の下に停められた車両は跡形もなく消え去ったとのこと。


ネバダ州の実験場で撮影にあたるJohn Kelly三等軍曹、1958年。


爆心地にどこまで近づけるかというのは爆弾の種類により異なり、カメラマンたちは厳密な計画に基づき配置されました。太平洋で行われた水爆実験では20マイル(約32km)の距離、ネバダ州の原爆実験では5~6(8~10km)マイルの距離から撮影し、時には爆心地からわずか2マイル(3.2km)の距離にまで近づくカメラマンもいたそうです。Yoshitake氏によると、ネバダでは土を舞い上げて衝撃波が伝わってくるのが見え、爆発から10~15秒に熱を感じることもできたそうです。

爆発が始まった直後の原爆を、非常に高速なシャッターを持つ特殊なカメラでとらえた写真。1952年に爆心地から2マイルの距離で撮影されたものです。


1955年にネバダ州の実験場で撮影された写真。右側に立ち上る波打つ細い煙は、大気中の衝撃波の伝わり方を観測するために発煙されたものです。


「映像で小さな爆発を見たことがある人は多いかもしれませんが、原爆や水爆の力をこの目で目撃するのは、信じがたい体験です。わたしは太平洋で初めて水爆を目撃したのですが、爆発の後に早朝の空を染める不気味な紫の輝きを、今も覚えています。見せ付けられた圧倒的な力は、恐ろしいものでした」とYoshitake氏は語っています。

1956年、南太平洋で撮影された水素爆弾。水爆は原爆の1000倍強力と言われます。


1958年に撮影されたこの原爆は、広島に投下された原爆の約半分ほどの「小さな爆弾」とのこと。


写真や映像は科学者たちが核兵器の性質や威力を分析する材料となったほか、政府関係者に向けて上映されることもあったとのこと。1963年以降すべての核実験が地下で行われるようになり、撮影チームは解散しましたが、その後1997年にクリントン政権下でHazel R. O'Learyエネルギー長官がこれらの記録映像の機密指定を解除することを約束し、情報公開が進められてきました。

1951年に南太平洋で行われた原爆実験を見学するVIPたち。


その後ブッシュ政権への移行や同時多発テロ後の国民の間に広がった核兵器への恐怖感を受け、情報公開の動きは2001年に停止したのですが、6500本あるという核実験の記録映像のうち約100本がエネルギー庁により公開されていて、以下のリンクから見ることができます。

DOE - NNSA/NSO -- Historical Test Films


「撮影当時はあくまで仕事と割り切っていて、深く考えることもなかったのですが、日本には、ヒロシマとナガサキで亡くなった親戚もいます。その後日本を訪れ、原爆の恐怖を目にし、核戦争はこの世で絶対に起きるべきでないと考えるようになりました」と語るYoshitake氏は、これらの映像の公開と修復・保全への取り組みを健全な動きとして評価し、情報公開により核の脅威に対する国民の理解が深まったと考えているそうです。

1945年に撮影された長崎の街。


冷戦が終わったいまも、諸先進国が莫大な数の核兵器を持ち続ける必要性に疑問を感じているというYoshitake氏は、「こんなにたくさんの爆弾が必要なのでしょうか?実に恐ろしいことです」と述べています。

・関連記事
「爆弾の皇帝」と呼ばれた核爆弾が爆発するムービー - GIGAZINE

「クロスロード作戦」の水中での核爆発実験ムービー - GIGAZINE

二段階熱核実験、コード名「カノープス Canopus」 - GIGAZINE

冷戦時にアメリカ軍からの核攻撃を想定して作られた核シェルター - GIGAZINE

原爆をテーマにしたマンガ「はだしのゲン」作者の中沢啓治氏、視力回復が見込めないためマンガ家を引退 - GIGAZINE

0

in メモ, Posted by darkhorse_log