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第二次世界大戦中に兄が墜落した場所を探し続けていた男性、67年目にしてついに報われる


第二次大戦中にドイツでの爆撃任務中に撃墜された兄の行方を探し続けていた87歳のイギリス人男性のもとへ、あきらめかけていたころにドイツから一通の手紙が届いたそうです。

手紙は考古学を専攻する20歳のドイツ人の学生からのもので、67年前の1943年に男性の兄が搭乗していた爆撃機の残がいと遺体を発見したというものでした。


詳細は以下から。'I feel peace at last': Emotional tale of pensioner who finally knows how his brother died | Mail Online

イングランド南東部のケント州Ashford出身で、現在87歳のJohn Tutt氏は、第二次世界大戦中はイギリス陸軍の対戦車連隊に属していました。イギリス空軍の無線技師であった兄のBernard Tutt軍曹が乗った爆撃機が1943年11月26日の夜フランクフルト爆撃任務中に撃墜されたことはわかっていたのですが、遺体も遺品も回収されず撃墜された正確な場所もわからないままでは気持ちの決着がつかず、終戦直後からずっと墜落場所を探し続けていたそうです。

今回の発見で「やっと心の平和を取り戻せた」と語るTutt氏。2人の子と3人の孫がいますが、昨年妻を亡くしたそうです。手にした写真の右から2人目が兄のBernardさんです。


Bernard Tutt軍曹(1943年撮影)、享年29歳。1943年11月当時には妻のJoanさんと共にケント州Tenterden在住で、息子のKeith君は生後2ヶ月だったそうです。


Bernard Tutt軍曹を含む総勢7名の乗組員を乗せたアブロ ランカスターは25機のランカスターと236機のハンドレページ ハリファックスと共に、1943年11月26日夜、ケンブリッジシャーの空軍基地からフランクフルト爆撃任務へと飛び立ち、ドイツ領空で激しい迎撃を受け、フランクフルト近郊で撃墜されました。

John Tutt氏は兄を乗せたランカスターが墜落した場所を割り出すためにわずかな情報でも知らせて欲しいと、長年にわたりドイツの関係各局へ手紙を書き続けてきました。その手紙のうち一通は、墜落場所だと推測されるヘッセン州ダルムシュタット=ディーブルク郡モーダウタール町のブランダウ地区(日本で言う村のような位置づけ)の区長にあて1999年に送ったものでしたが、返事がないまま10年以上経過し、あきらめかけていたそうです。

ブランダウはドイツ南西部、フランクフルトの南に位置します。


ブランダウ区長は手紙に返信はしなかったものの、兄の行方を知りたいというTutt氏の願いを10年間忘れていなかったようで、最近になって20歳の考古学専攻の学生Felix Klingenbeckさんから飛行機の残がいを発掘したという報告を受けた際には、Tutt氏に連絡をとるよう指示したそうです。

「唐突にFelixという名の若いドイツ人の学生から手紙が届き、飛行機の残がいと乗組員の遺物を発見したというのです。非常に驚きましたが、実にすばらしい驚きです」とTutt氏は語っています。「いまは本当の達成感と、区切りが付いたような気持ちを感じています。この気持ちをずっと必要としていたのかもしれません。Bernardがどこに居るのかわかっているというのは、大きな慰めとなります」

フランクフルトの南22マイル(約35km)の森の中で、金属探知機で探査中にランカスターの残がいを発見したFelix Klingenbeckさん。


Felix Klingenbeckさんは村の老人から飛行機が森へ墜落するのを見たことがあるという話を聞き、残がいを見つけることができれば興味深いのではないかと思い、所有する金属探知機を手に森を探査しました。

「機体は古い伐採道路に墜落し、墜落時にできた穴の中にそれ以来埋まっていました。製造番号の入った機体の一部を発見した後、何度も現場を訪れ少しずつ残がいを発掘していたのですが、人間の遺体もあると気付いたときには非常に驚きました。人骨を見つけることになるとは思ってもいなかったので」とKlingenbeckさんは墜落現場を発見した経緯を語っています。

発見されたランカスターはその後アメリカ人のチームにより可能な限り発掘され、現在は遺体のDNA鑑定を行っている段階とのことです。機体の製造番号「JB221 OF-W」はイギリス空軍第97飛行中隊の記録と一致し、Tutt氏の兄を乗せたものに間違いないようです。

撃墜されたものと近いタイプのランカスター。イギリス空軍が1942年に運用を開始し、主に夜間爆撃で活躍しました。


機体の発見はドイツ当局の関係者のほか、スコットランドやカナダ、アメリカ出身のほかの搭乗員の遺族にも知らされ、遺族の中にはすでに墜落現場を訪れた人もいるそうです。Tutt氏も年内に現地を訪れ兄に最後の別れを告げる予定とのこと。

Bernard Tutt軍曹は現在はサリーにあるRunnymede Memorial(イギリス空軍戦没者記念館)で弔われているのですが、John Tutt氏は今後墜落現場を乗組員を弔うメモリアル・ガーデンとし、記念碑を建てることができればと願っているそうです。

フランスとドイツでの陸軍の戦務のはざま、休暇を家で過ごしていたところ、兄の乗った飛行機が行方不明という知らせを受けた時のことを今でもはっきりと覚えているというTutt氏。「Bernardは8歳年上で、何年もたった今でも彼のことははっきりと覚えています。優秀なスポーツマンで、フットボールとクリケットをやっていました。素晴らしい人柄で、妥協することを知らず、一度知り合ったら一生友達というように、仲間を大切にしていました。彼が亡くなったとき息子のKeithは生後わずか2ヶ月だったのは、とても悲しいことです」と、兄の思い出を語っています。

「ブランダウの村人たちはすばらしく協力的で、公園や記念碑についても亡くなった若者たちに対する正しい敬意の示し方だと賛同してくれています。これだけ長い年月を経てやっとBernardを発見できたことは、わたしにとってはかけがえのない出来事です」

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in メモ, Posted by darkhorse_log

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