アート

イタリア人写真家が撮影した1880年代の日本の風景や風俗を伝える貴重な写真


1880年代といえばまだほとんどの西洋人は日本に自由に入国することができなかった時代ですが、明治時代初期の1873年に来日したイタリア人アドルフォ・ファルサーリは横浜に写真スタジオを開き、在留外国人と外国人旅行者に土産として販売するために数多くの写真を撮影しました。

熟練の職人によって1枚ずつ手作業で彩色された写真は幻想的な雰囲気を帯び、当時は生まれてもいなかった現代の日本人が見ても不思議とノスタルジーを感じるものとなっています。


詳細は以下から。Adolfo Farsari – The Man Who Shot Old Japan | Quazen

写真は当時の日本人にとっては非常に高価だったため購入者のほとんどは外国人で、観光客にアピールするような主題が選ばれています。


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ファルサーリも自分の写真を芸術としてではなくビジネスととらえていたようで、撮影された人々のどこまでが自然な姿でどこからが演出されたものなのかはわかりませんが、こうした写真が残されていることにより「当時の外国人が抱いていた日本に対するイメージ」と「現代の日本人が抱いている明治の日本に対するイメージ」はかなり近いものとなっているかもしれません。

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「Wrestlers」と題された相撲の写真(1886年)。


ファルサーリは1841年ヴィチェンツァ生まれ。1859年に第二次イタリア独立戦争でイタリア軍に従軍、1863年にアメリカに移住し熱心な奴隷制度廃止運動家となり、南北戦争終結まで北軍の一員として従軍、アメリカ人と結婚し2児をもうけるも1873年に離婚し単身で来日するという波乱万丈な人生を送りました。来日した後は横浜で雑貨や書籍、観光地図や観光写真を扱う商会を設立し、日本の旅行ガイドブックを自ら執筆、出版もしています。1883年ごろから独学で写真を学び、1885年に日本人写真家の玉村康三郎とパートナーシップを結び、すでに横浜で営業していたStillfried & Andersenスタジオを買収することにより本格的に商業写真家としてのキャリアをスタートしました。

「Jinriki」と題された2人の女性を乗せた人力車の写真(1886年)。写真はこのような絵入りの台紙に張られ、アルバムとして販売されていたようです。


「Rooms」と題された写真(1886年)。当時の外国人旅行者が自国へ持ち帰り、「日本ではこういったタタミの部屋で靴を脱いで生活しているんだよ」などと土産話をする様子が想像できます。


写真はモノクロの鶏卵紙写真で、当時の最高品質の素材を使用して日本人の彩色職人が手作業で彩色していました。熟練の職人は1日あたり2~3枚の彩色写真を高品質で仕上げることができ、非常に高給取りだったそうです。

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お祭りの行列でしょうか?現在のカメラなら一瞬でスナップできる光景ですが、当時のカメラでは露光する間5秒間ほどモデルに静止してもらう必要がありました。よく見るとブレている人がいるのは写真家ではなくモデルが動いてしまったためです。

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この調理風景も写真家によって演出され、ポーズをつけて静止して撮られたものだと思われますが、包丁を持つ手や女性の視線など、かなり自然に仕上がっているのではないでしょうか。

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傘を張る職人。これも静止して撮影されているはずなのですが、時代劇のスチール写真のようです。

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盆栽はほとんどの外国語で「Bonsai」と呼ばれ、海外でも数多くの愛好家がいますが、これは写真で盆栽を外国人に伝えた最初期のものかもしれません。

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屋形船。


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ファルサーリの写真が人気を博した理由には、1880年代後半に日本で活動していた数少ない(1887年以降は唯一の)外国人写真家だったというだけでなく、当時としては高い撮影・現像・彩色技術で素材も最高品質のものを使用し、アルバムの装丁などにもこだわったクオリティの高い商品を提供していたことが挙げられますが、対象の選び方・構図・フレーミングなどのセンスも見てとれます。

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「Tagonowrabashi」と題された、富士山をバックに田子の浦橋を収めた写真

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港町の風景。洋館やレンガ造りの建物と和風建築が混在していますが、横浜なのでしょうか。

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ちゃんと街灯などが整備されています。

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「Tennonji, Osaka」と題された1885年~1890年に撮影された四天王寺の写真。横浜を拠点としていたファルサーリの人物・風俗写真の多くは東京や横浜・鎌倉・箱根など関東で撮影されたものですが、数ヶ月をかけて日本中を旅行して撮影された各地の風景・観光写真も数多く残っています。


鏡湖池に映る金閣。彩色も自然で、数十年前に撮影されたカラー写真が褪色したものと言われても信じてしまいそうです。

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ファルサーリの写真は画家のインスピレーションのもとともなりました。写真製版技術がまだ発達していなかった時代のことなので、当然「複製」という意味で写真をもとに描かれた絵画やイラストも数多く存在しますが、ファルサーリの写真は芸術作品のモチーフにもされています。同時代のジャポニスムの画家としては浮世絵をもとに絵を描いたゴッホなどが有名ですが、フランス人画家のLouis-Jules Dumoulinが描いた「Boys' Festival from the Bluff, Yokohama(横浜・端午の節句)」という作品はファルサーリが撮影した京都の写真をもとに鯉のぼりをスーパーインポーズしたようなものとなっています。

「Gionmachi, Kioto」と題された京都・四条通の写真(1886年)。


Louis-Jules Dumoulinの「Boys' Festival from the Bluff, Yokohama」(1887年)。


「Officer's Daughter」(士官の娘)と呼ばれるこの写真はおそらくファルサーリの写真のなかで最も有名なものの1つですが、実はファルサーリが開業時に買収したスタジオに残っていたものである可能性や、ほかの商業写真家との在庫やネガの交換で手に入れたものという可能性もあり、撮影者ははっきりしていないそうです。


しかし、上の写真と同じ女性がモデルのように見えるこの写真もファルサーリの作品とされているので、「士官の娘」もファルサーリ作であるという可能性が1番高いようです。

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1885年に日本人女性との間に「きく」という名前の娘をもうけたファルサーリですが、この女性と正式に結婚したかどうかは分かっていません。1863年以降四半世紀以上離れていたイタリアへの望郷の念がつのり、1890年に娘を連れ帰国したそうです。その後ファルサーリは1898年2月7日、57歳の誕生日の4日前に故郷のヴィチェンツァで亡くなりました。

このほかにも以下のサイトからアドルフォ・ファルサーリによる1880年代の日本のさまざまな彩色写真を見ることができます。

Japon 1886 - Adolfo Farsari - a set on Flickr

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in アート, Posted by darkhorse_log

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