メモ

英雄たちに捧げられた10の記念碑


世界中の戦場で戦った英雄や、散っていった兵士たちのために捧げられた記念碑です。もともとは鎮魂や慰霊を目的としたものでも、今は観光地化されたものが多く、旅行の際に簡単に立ち寄れるようなものが多いですが、その意義を考えると軽い気持ちで行っていいものではないような気がします。

詳細は以下から。
10 Stunning Monuments Dedicated to Heroes | WebUrbanist

Mărăşeşti Heroes Mausoleum(ルーマニア)


第一次世界大戦中の1917年夏に行われたマラセスティの戦いで亡くなった人を追悼するために建てられた碑。戦いではルーマニア軍は610人の将校を含む2万4000人を失いましたが、なんとかドイツ軍を破りました。施設の地下には6000人の兵士が埋葬されており、他には旗や武器、大砲、戦利品なども埋められているそうです。

アタテュルク廟(トルコ)


アンカラに行ったら見ておくべき場所の一つといわれるのがアタテュルク廟。トルコの初代大統領で、現代トルコの父と言える軍人ムスタファ・ケマル・アタテュルクに捧げられたもので、彼の使った家具や軍服が展示されています。

ワルシャワのゲットー・スクエア(ポーランド)


第二次世界大戦中、ドイツ軍はユダヤ人をゲットーと呼ばれる居住区に集めて住まわせました。そのうち、ワルシャワのゲットーは特に大規模なものでした。ゲットーでは一人あたり週に700グラムのパンしか配給されず、収容されていたユダヤ人約40万人のうち、衣食に事欠くような人が15万人いると推測されていました。人の集まるシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)などから腸チフス、結核、インフルエンザなどの疾病が広がり、1942年3月には1ヶ月あたりの死者が5000人にのぼりました。そのうち、ドイツはユダヤ人をゲットーから「追放」し始めたのですが、この追放が労働キャンプに送られるものではなく強制収容所に送られるものだと気付いたユダヤ人はドイツに対して反乱を起こしました(ワルシャワ・ゲットー蜂起)。約1ヶ月で反乱は鎮圧され、5万6000人近いユダヤ人が殺されました。ワルシャワにはこの時の蜂起の記念碑があります。

ネルソン記念柱(イギリス)

トラファルガー広場に作られた、ホレーショ・ネルソン提督を記念する碑。ネルソンはイギリス海軍の提督で、スペイン艦隊を打ち破った1805年のトラファルガー海戦の勝利を記念して建てられました。勝利は収めましたが、ネルソン自身は戦いの最中に狙撃されて亡くなっています。記念柱は1838年、建築家のウィリアム・レイルトンが制作。ウエストミンスター宮殿の方角を向いて建てられており、台座の高さは46m、さらにその上に5mの提督像が立っています。

これが記念柱の上に立つネルソン提督像。


靖国神社(日本)


靖国神社は1869年に「東京招魂社」として設立され、1879年に「靖国神社」に改称。現時点で246万6532柱が祀られています。これには戊辰戦争・明治維新で新政府軍側として戦い亡くなった人から、太平洋戦争で亡くなった人までが含まれています。

ソンムの戦い記念碑(フランス)


1915年にウェールズ第38師団はフランスに上陸、1916年7月に第一次世界大戦最大の会戦であるソンムの戦いに参加しました。第38師団が担当したMametzの森はこの戦場でも最大のもので、Death Valleyと呼ばれる谷があって攻撃するためにはその狭隘路(きょうあいろ)から攻める必要がありました。ここを正面から攻撃した第38師団は待ち構えていたドイツの機関銃の餌食になり、5000名を越える犠牲者を出しました。記念碑自体は1920年にMametzの教会に置かれていましたが、1980年に退役軍人らによってウェールズの象徴である赤いドラゴンの像が置かれました。

シャーマン記念碑(アメリカ)


ニューヨーク市マンハッタンのセントラルパークの一角にある広場がグランド・アーミー・プラザ。ここにはアメリカで最も有名な将軍の一人、ウィリアム・テカムセ・シャーマンの乗馬像があります。シャーマン将軍は南北戦争時に北軍に所属し、グラント将軍とともにヴィックスバーグの戦い、チャタヌーガの戦いで戦果を挙げました。像は彫刻家オーガスタス・セイント=ゴーデンスが1903年に製作したもの。

海兵隊戦没者記念碑(アメリカ)


アーリントン国立墓地にある、硫黄島の戦いで星条旗を掲げるところをかたどった碑。1775年から今までに亡くなった海兵隊員すべてに捧げられています。

人民英雄記念碑(中国)


天安門広場にあって、19世紀から20世紀の革命で亡くなった英雄たちを記念して建てられた記念碑。デザインは梁思成。現在は厳重に警備され、近寄ることができなくなっています。

クルトィ英雄記念碑(ウクライナ)


1917年にロシアで二月革命が起こり、その影響でウクライナでも自治組織が結成されました。中心となったのはウクライナ中央ラーダという組織で、1917年11月30日にウクライナ国民共和国の成立が宣言されました。しかし、ソビエト政府はウクライナに対して軍事侵攻を決定。1918年1月14日にキエフ近郊のクルトィ駅でソビエトのボリシェビキ軍と中央ラーダ軍が激突しました。記念碑はこの戦いで散った若い学生たちを追悼するもので、2006年8月に建てられました。

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in メモ, Posted by logc_nt

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